先輩の背中で学ぶ「ノー」も言う営業

1951年3月、東京・両国で生まれる。父は鉄工所を経営し、祖父母と母、妹の6人家族。小学3年のとき、父が親戚の早大生を家庭教師に付け、彼が出た麻布中学を受験する。家業は真っ黒になって働く仕事で、父には「継がなくていい。サラリーマンになれ」と言われた。麻布高校を卒業する年、大学紛争で東大受験がなくなり、早稲田大学商学部へ進む。

73年4月、東陶機器(現TOTO)に入社。東京・虎ノ門にあった東京支社で、洗面化粧台などを建設会社やマンション施工主に売り込む販売2課に配属された。以来、一貫して営業畑を歩む。

入社した年、第一次石油危機が起き、資材の不足や高騰で生産が追いつかず、売る商品がなくなる。逆に「受注いただいた商品が、納入できなくなりました」と謝って歩く日々が、半年も続く。

そんな状況下でも、先輩たちはお客と親しく付き合っている。何を話せばそうできるのか、誰も教えてくれない。「背中をみて覚えろ」の時代だった。衝撃だったのは、先輩が取引先の値引き要求に「そんなことはできません」と断っていた姿だ。コストと品質のよさを説明し、堂々と「これだけいいものをつくっているので、値引きは無理」と言い切る。これも、「枉己者」になることへの拒絶。営業の真髄をみた気がした。

東京支社では、千葉営業所員と柏営業所長も経験した。取引先は小さくなっても、「現場」がよくみえた。そこから営業本部へ転じて、40代で流通と販売の二つの改革に携わる。「リモデル事業」の大展開は、これらの改革があったから成功した。

ただ、改革は、終わった瞬間から、次が待つ。ひと息ついてはいけないのが、経営の要諦だ。だから、常務執行役員で販売推進グループ長だった2005年、「ソリューション塾」を開設する。全国の営業拠点から、20代後半から30代前半の100人を塾生に選び、3グループに分けて半年間、毎月1回ずつ東富士の研修所に集めた。そのすべてにいった。講師は自分だけ。大半は塾生同士で議論させ、最後に締めの話をした。販売改革で三本柱に掲げた営業のやり方が、やはり話の核となる。

09年4月、社長に就任。第一声は「全社一丸」だ。すぐに、全国の現場巡りに入る。営業拠点よりも、23ある製造拠点を優先した。製造ラインの稼働状況をみて景況感をつかみ、懇親会で盃を交わして「現場」の本音を聴く。リーマンショックの翌年、まだ厳しい時期だっただけに、気持ちのベクトル合わせにも、心を砕く。

時代は大きく変化し、情報通信技術の進歩で、仕事の仕方も変わっていく。でも、「人と人の関係がつくる営業」や「ノーも言う営業」は、変わっていない。そんなことで変えてしまっては、「枉己者」になってしまう。だから、会長になってからも、社長が海外展開やM&Aで多忙なら、いつでも現場巡りを引き受ける。何と言っても、志を同じくする若者に出会うのが、うれしいからだ。

TOTO会長 張本邦雄(はりもと・くにお)
1951年、東京都生まれ。73年早稲田大学商学部卒業、東陶機器(現TOTO)入社。98年リモデル企画部長、2002年マーケティング統括本部長、03年取締役、05年常務、06年専務、09年社長。14年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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