河井継之助:1827~68。越後長岡藩主・牧野家家臣。一家臣から同藩家老上席まで上り詰める。長岡軍を率いて新政府軍と戦った北越戦争で受けた傷がもとで没。
<strong>新日本石油会長 渡 文明</strong>●1936年、東京都生まれ。60年、慶應義塾大学卒業後、日本石油(現・新日本石油)入社。新潟製油所を経て、営業一筋に歩む。副社長だった99年、三菱石油との企業合併を経験。2000年、代表取締役社長就任、05年より現職。06年より経団連副会長も務めている。
新日本石油会長 
渡 文明

1936年、東京都生まれ。60年、慶應義塾大学卒業後、日本石油(現・新日本石油)入社。新潟製油所を経て、営業一筋に歩む。副社長だった99年、三菱石油との企業合併を経験。2000年、代表取締役社長就任、05年より現職。06年より経団連副会長も務めている。

その日付を今でも覚えています。第一次石油ショックが収まりつつあった1975年12月22日。私は、緊急入院を余儀なくされたのです。

当時39歳。最前線の係長として石油の安定供給をやり繰りしながら、売り惜しみや便乗値上げが発生しないよう、今でいうCSR(企業の社会的責任)の徹底のために身を粉にして働く毎日でした。とにかく深く眠れるよう、眠り薬代わりに嗜んでいたアルコールの量が増え、急性肝炎と診断されたのです。

課長昇進を目前にした大事な時期に、入院して病室の天井を見上げて過ごす日々。自分の仕事人生はこれで終わったと落ち込みました。1カ月近く経ってようやく「これはこれで私の定められた人生」と達観しかけた頃に出合ったのが『峠』だったのです。入院中、とにかく本をむさぼり読んでいたのですが、自分の境遇に重なり心を打たれたのがこの作品でした。

主人公の河井継之助は越後長岡藩主・牧野家の中堅どころの家臣に生まれながら、家柄を超えて家老上席まで上り詰めた人物です。各種の藩政改革を成し遂げて長岡藩を近代化し、幕末の雄藩の一つに押し上げます。大政奉還後、新政府軍との北越戦争では、一度は落城した長岡城を奪い返すなど巧みな用兵で奮闘するも敗北、長岡藩は壊滅的な被害を受けました。大きく減封されて財政は窮乏、廃藩置県後も長岡の人々は大変な苦労をした。このため、戦争の責任者だった継之助を悪く言う人もいます。

毀誉褒貶ある人物ですが、司馬遼太郎さんは「公のために自分はどう行動すればよいか」という形而上的思考を行動原理とした河井継之助の精神性に光を当てて描いています。侍の美学、武士道的倫理の美しさの象徴としてこの人物を描いたのです。過労死寸前まで働いていた私の目には、公のために迷いなく身を投げ出す継之助の姿勢が鮮烈に映りました。いかに美しく生きて、いかに美しく死んでいくか。病床にあったからこそ、こんな美学が心に強く響いたのでしょう。

あの石油危機から30余年、原油市場の暴走に振り回される時代が再びやってきました。欲望がむき出しにされがちな時代にこそ、継之助の生き様をいま一度振り返る必要があるように思います。

99年に日本石油と三菱石油が合併して新日本石油が誕生してからはや10年。前半は社長として、後半の5年は会長として一つの会社に仕上げる仕事に専心してきました。ようやく一区切りがついて、新日鉱ホールディングスとの合併という新しいステップに踏み出すことになります。次の世代のために、新会社でどういう体制をつくり上げてゆくか。いかなる立場にせよ、継之助のように私利私欲を捨てて取り組みたいと思っています。もちろん、長岡藩のように会社を存亡の危機に立たせるわけにはいきませんが。