伸びた背筋、目には活力が漲る。慶大時代にアメリカンフットボール選手として活躍し、リクルートで日本一に就いた。直後、チームがクラブ化され、会社の支援が打ち切られた。「独立するチャンスだと思った」という。

山谷は経営コンサルティング会社「リンクアンドモチベーション」に転職する。スポーツマネジメント業務に携わっていたところ、チーム運営会社の社長のオファーをもらった。2007年1月、代表に就任する。

「バスケも栃木もまったく縁もゆかりもなかった。でも何かの縁かなと思ったのです。周りに話を聞けば、“栃木ではうまくいかないぞ”と」

宇都宮市はざっと人口60万人。当時、栃木は関東一都六県で唯一、Jリーグがない県だった。しかもバスケットはメディア露出が低い。どうやって会場にファンを集めるのか。

いわばゼロ状態だった。いや、前年に日本リーグ入りを却下されたため、むしろマイナスからのスタートだった。山谷がため息をつく。「資本金が400万円。ぼろっちいビルの六畳一間のオフィス。常駐のスタッフが3人……」。

でも、目標を日本一においた。プロだからこそ結果にこだわる。

「そうでなければ、ビジネスの根幹をなさない。日本一を標榜しないということは、お客さんを裏切っていることなんです」

もっとも山谷のどこかに「やればできる」との自信があった。リクルートで弱小チームから日本一になった成功体験ゆえか。リンク栃木の説明書には「5年以内に日本一」と書いた。

「実績も施設もお金もない。コーチもいない。そういった中でお金を集め、選手にきてもらわないといけない。ウソ八百でも、日本一になるぐらい言わないといけなかったのです」

チームのスポンサー集めは困難を極めた。ベンチャー企業の商品セールスと同じである。アポとりの電話をかけても、「結構です」と断られる。会って資料を見せても、ケンモホロロに押し返された。でもあきらめなかった。

「僕の哲学として、未来のことって100%は絶対ないということなんです。不確実な中で“いけるかも”と判断してもらうしかない」。要は資料や言葉に説得力を持たせ、期待感として代価をもらうのだ。

「もし契約がとれたら、期待にどれだけこたえられるかがポイントとなります。期待を上回らないと、支援を継続してもらえない。約束するまでのプロセスよりも、約束したあとのほうが100倍大事なのです」