窮地から救ってくれるのは決断と人とのつながり

【小松】私の取材の根本にあるのは、自分自身の体験です。私が放送局に勤めていた頃は、女性がクリスマスケーキに例えられるような時代でした。24歳が売り時、25歳がギリギリで、26歳だとタダでも売れないと。20代半ばになると、上司からも「結婚しないの?」と言われる。そんな中、自分の表現を求めてさまよって、考えすぎて病気になって、救急車で運ばれて……そこで転職する決意をしたんです。困難にぶつかったとき、自分を変えるのは自分自身の決断でしかないと気づいたんです。誰も代わってくれない。松村社長もそうだと思いますが、代替えのある人生なんてありえないんです。

【松村】困難や憂鬱(ゆううつ)なことって仕事をしていたら必ずありますよね。幻冬舎の見城徹社長は、朝起きて憂鬱に感じることが3つないってことは、仕事をしてないってことだ、とおっしゃっていました。乗り越えるべき壁があるから、燃えて仕事に打ち込める。私もその通りだと思います。

【小松】そう、困難があるからこそ燃えるんですよね(笑)。これまでの経験から、私自身の中に思考のシナプスができたんだと思うんですけど、困難になると、どうやってリカバリーしようって集中して、考えて、行動して。それが好き。

【松村】乗り越えた先の誰かの喜ぶ顔や達成感を知ってしまうと、進むしかなくなります。

【小松】外食業界の困難といえば、11年3月11日の東日本大震災でした。飲食店がバタバタとつぶれていっている中で、松村社長は一度しか会ったことがない経営者にも電話をして、「大丈夫ですか」と声をかけ、危機を乗り越える術を伝えていたとのこと。それまで飲食業界って、横のつながりがほとんどなかったそうですね。

【松村】僕が同業者と仲良くしていたら、いつしか、部下たちも部署ごとに他社とつながって、情報交換をするようになっていて。それはうれしいことです。

【小松】これだけ成功されていても、松村社長は「まだまだ」ってお気持ちですよね。

【松村】そうですね。外食産業には、300億円限界説というのがあるんです。売り上げが300億円に達したところで成長が止まってしまうという。実際ダイヤモンドダイニングも、300億円が見えてきたとき失速感を覚えました。そんなとき、的確なアドバイスをくれたのは外食産業の重鎮や、長く僕を支えてくれていた社員でした。彼らのためにも、僕はもっと熱狂して、越えていかなくてはならない。失敗しても、財産がなくなるだけで死ぬわけではないんだから、また、新しい挑戦をはじめればいいんです。

小松成美さん「人を取材するほど、人は本当に強いと感じます。辛くても苦しくてもみんな時代を生き抜いている」/松村厚久さん「仕事も笑いも全力です。体が思うように動かず椅子から落ちても、笑ってくれたらうれしい」
ダイヤモンドダイニング代表取締役社長 松村厚久
高知県出身。1989年日拓エンタープライズに入社。独立後、2001年飲食1号店をオープンし、10年に100業態100店舗を達成。海外飲食やアミューズメント施設の運営、海外ウエディングなど事業を拡大。15年7月に、東京証券取引所市場第一部上場。
ノンフィクション作家 小松成美
横浜市生まれ。広告代理店や放送局勤務等を経て1989年より執筆活動を開始。人物ルポ、スポーツノンフィクション、インタビュー等の作品を発表。『中田英寿 鼓動』『五郎丸日記』など著書多数。最新刊は、GReeeeNを描いた青春小説『それってキセキ GReeeeNの物語』。

MARU=構成 蝦名まゆこ=撮影