大学の4年生になって「まあ何か就職しなきゃな」と思ったんですけど、やりたい仕事がなかなか見つからない。当時は景気がよくて就職には恵まれていましたので、好きなことをやって、ダメなら普通の会社に入ればいいやと思ったんです。最初は役者とかお笑いもいいなと思ってたんですけど、役者は数が多いから大変、お笑いは体力がいるから年をとったらできないなと。それで残ったのが落語です。

入門は、かねてから好きだった春風亭柳昇師匠(2003年没)の門を叩きました。うちの師匠は、自分で作ったネタを自分の言葉で高座にかけるんですが、僕もそういう落語家になりたかったんです。当時、師匠には7人の弟子がいて、僕は8人目だから前座名は昇八。

前座時代は古典一本槍の稽古。だから、あまり稽古はしなかったです。なぜかというと、僕は自分のしゃべり方でやりたかったので、落語独特の口調が移っちゃうのがいやだったんです。「するってえと、おまえさん何かい?」みたいなね。だから、なるべく離れたところで、怒られない程度に稽古していました。

林家木久扇、木久蔵親子のW襲名披露興行に出演。会場の空気を読み、出た瞬間に笑いをとる。演目は古典の「時そば」だった。
林家木久扇、木久蔵親子のW襲名披露興行に出演。会場の空気を読み、出た瞬間に笑いをとる。演目は古典の「時そば」だった。

そんな気持ちでやってたから、前座時代はいわゆる落語通みたいな人たちに、ずいぶんいじめられましたよ。あのころは、評論家が口を揃えて、「古典落語じゃなければ落語じゃない」みたいな教科書を作っちゃった。地域の小さな落語会に行くじゃないですか、すると打ち上げで酔っぱらった落語通ぶったオヤジさんたちがやってきて、「キミ~、もっと古典を勉強しないとダメだねえ」。ああもうイヤだ。こういう人たちに向かって落語をやっていくのかと思うと、噺家をやめてやろうと思ってましたね。毎日酒を飲んではふてくされていました。

ですから、4年半の前座修業を終えて、二つ目になったときは、うれしかった。二つ目になればもう好きなことがやれます。そこで、本格的に新作落語をやり始めましたが、でも、依然として新作落語の評価は低かったですね。

二つ目さんを対象とした落語コンクールがあるんですが、ノミネートされて新作落語で参加したんです。ものすごくウケて、ああよかったと思っていると、電話があって「昇太さんは努力賞です」と言われて。「優秀賞は誰ですか?」「今回は該当者なしです」。で、審査評を見ると「ウケていたけど、今回は賞を渡すべきでない」と書いてある(笑)。「ああ、新作ってそうなんだ」と思って。