母としての経験を国家のリーダーの資質の議論に持ち込むのは「ナイーブ(未熟)である」

さらに、批判を受けたレッドソムが「あのタイムズ紙のおぞましい記事は私の発言と異なる」と弁明したため、担当女性記者レイチェル・シルベスター氏が真っ向から反論した(参考:「英保守党党首選のレッドソム候補、『母親の自分の方が適任』発言を謝罪」BBC)。

「(レッドソム氏に)自分とテリーザ・メイの違いは何かと聞くと、テリーザ・メイには子供がいないと答えた。違いは『経済手腕と家族』だと。明らかに自分の長所だと思っている様子だった」「そういう比較をしておきながら問題視されないと思ったのは、ナイーブだ」。政治家としての資質の議論に、子育ての経験の有無を持ち込むのはプロとしてナイーブである、と斬った。

アンドレア・レッドソム氏はテリーザ・メイ氏に対し、「母親の自分の方が適任」と発言したことを謝罪した、とBBCが報じている。

私はこの2本のBBCのインタビュー動画にのけぞった。ここには、いかに英国の女性職業人を巡る意識が、日本のそれより遥か何周も先を走っているかが示されていた。いまこの現在の日本に、日本の国益を代表する女性首相など生まれない。もしやそんな機運が奇跡的に起こったとしても、そんなレベルにいる女性政治家は数えるほどしか存在しないから、“女性同士で首相の座を巡って一騎打ち”などという事態が起こるわけもない。

ましてや、「母親政治家」が「子を持たない女性政治家」に向かって「自分の方が政治家として資質が高い」などと発言する場面が生じることもない。なぜか。

地方か中央政界かにもよるけれど、まず日本の政界は、政治のプロではない元芸能人や女子アナやキャンギャルやグラビアアイドル出身などの、人前に出るキャリアで既に顔を知られたタレント女性政治家ばかりが不思議と担ぎ上げられる場所だからだ。そして母親になってなお政治活動を続ける、続けられる女性がなかなか出現しないからだ。さらに数少ない、政治のプロとして育った女性政治家が結婚出産後も必死で政治活動を続けていても、中央へ近づいて何かに指一本かかった瞬間、どこからか飛んでくる下衆なスキャンダル記事で撃ち落とされるからだ。

そして何より、「母親であること」が職業人として有利であるだなんて、社会もましてや母親たち本人も思って(思えて)いないからだ。日本では母親であることは“真っ当なキャリア”の足かせでこそあれ、まさかアドバンテージだとは見なされることなく、ここまで来た。基本的に子育てに専念する期間は、キャリア上のブランク(=無)であると評価されてきた。

「子育て経験はアドバンテージになる」という発言がたまにあっても、「保育や介護や接客業くらいなら認めてやってもいいが、本音では復帰に必死な母親たちの悔し紛れだろう」と微妙な気遣いを受けてきた。だから“ママなのに”活躍している女性は、遠慮がちな社交辞令的賞賛の対象でこそあれ、真っ向から批判などされるわけがなかった。“お客さん”だからだ。ガツガツと真剣にポストを狙い、人生を賭け他人を蹴落とし目を光らせている層にとっては、シリアスなライバルになり得ないからだ。

社会的に活躍する女性の絶対数が少ない社会では、ポストを巡る女性同士の衝突も起きない。ましてそこで女同士で子育て経験の有無を焦点にして揉めるような日が日本にやってくるのはいつだろう、5年後か、10年後か。

子育て経験を売りにした女性政治家が批判される英国と、子育て経験のある女性政治家が首相の座を巡って女性同士で争うなんて場面自体が想像もつかない日本との、彼岸と此岸の距離をご理解いただけただろうか。