仁孝天皇の第8皇女で、孝明天皇の異母妹にあたる親子(ちかこ)(和宮)が、公武合体策の奥の手として、14代将軍徳川家茂との婚儀のために京都を出発したのは文久元年(1861)10月20日のことだった。親子は有栖川宮熾仁親王と婚約していたが、岩倉具視ら公武合体派が「降嫁」を謀り、解消させられたのだ。

天皇家と徳川家の婚姻は、はじめてではなかった。2代将軍秀忠の五女和子が後水尾天皇の中宮として入内している。また7代将軍家継のもとに霊元天皇の第12皇女八十宮が降嫁する予定で結納まで交わされたが、8歳の家継が夭逝。3歳の八十宮は結納したまま後家となり、以後、幕府は終身500石を進上しつづけた例もある。

京都を立った親子一行は、攘夷派の妨害工作を避けるために東海道を避けて中山道を下り、11月15日、江戸に入ったが、「すべてを御所風に」という条件で折り合いが合わず、けっきょく江戸城入りするのは12月11日となった。婚儀は翌年2月11日だった。このとき和宮も家茂も同じ歳で、数え18歳。姑となる天璋院(てんしょういん)(篤姫)は、10歳年上の数え28歳だった。

だが、この「御所風に」が大奥に大問題を起こすことになった。

大奥に入った親子一行は、あらかじめ申し伝えておいたのだからと「御所風」を通し、亡き13代将軍家定の正室で、家茂の養母にあたる天璋院はもちろん武家風を要求する。

はじめて、ふたりが顔を合わせたときも、あきらかに天璋院のほうが上座だったため、親子はカチンときた。降嫁した親子は「和宮(かずのみや)」を名乗ることになるが、将軍の正室なので幕府は「御台」と呼ぶことを朝廷が不服とし、呼称が「和宮」で統一されたため、こんどは天璋院をはじめとする人たちもカチンときた。

ありていにいえば、嫁「和宮」と姑「天璋院」の確執だ。

和宮「わたしは天皇の妹なの」

天璋院「嫁の分際で生意気な」

一般に、嫁姑問題が発生した場合、嫁の夫=姑の息子は板ばさみとなり、それぞれからグチを聞かされることになる。ひとまず母親(姑)の顔を立て、妻(嫁)をなだめるものかもしれない。家茂もまた、養母天璋院を立て、和宮に気を遣い、ふたりの仲は、かなり睦まじかったと言われている。家茂にしても、「家庭」にあたる大奥が安泰でなければ、安心して政務にあたることができないことをわかっていたのだろう。

いつの世でも、仕事の基盤が家庭の安泰であることに変わりはない。

姑天璋院とは犬猿の仲だった和宮だが、慶応2年(1866)7月20日に夫家茂が大坂城で病死すると落飾。「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と号した。家茂が土産に購入していた西陣の織物が形見として届けられた。

そろって後家となった天璋院と静寛院宮は、幕府が崩壊するときになって、ようやく和解し、協力しはじめる。嫁いだ徳川家が最大の危機を迎えたというだけではなかった。その徳川家を追いつめているのが、天璋院の実家である薩摩、静寛院宮の実家に仕える公卿岩倉具視らだったからだ。天璋院は島津家に、静寛院宮は甥にあたる明治天皇に、それぞれ徳川家の存続と15代将軍慶喜の助命を嘆願している。

江戸開城後は、静寛院宮は田安家の屋敷に入ったのち京都に戻り、明治天皇が東京に来るのにあわせて再び「上京」。明治10年(1877)9月2日、箱根塔ノ沢で他界した。脚気衝心が死因とされる。享年は数え32という若さだった。

和宮(静寛院宮)については、有吉佐和子『和宮様御留』などにある替え玉説、また、遺骨調査などをもとに「左手首から先がなかった」という説があるが、いずれも興味深くはあるが俗説。