18世紀、アントワーヌ・ド・リヴァロールなる著述家が「フランス語の構文は不滅なのだ(略)明晰でないものはフランス語でない。明晰でないものは、英語、イタリア語、ギリシヤ語あるいはラテン語ではありうるが」と記し(=ディスり)、その「フランス語は明晰な言語である」の部分が一人歩きしたらしい。この、それこそ根拠や説得力を欠く「自分たちの言語への優越感」が、やがて簡単に「自分たちの文化への優越感」に横滑りし、そんな優越した言語を用いて導いた我々の思想(イデア)は普遍だと問答無用で確信する態度、「普遍のショービニズム(排他的愛国主義)」へと昇華した、と石井洋二郎は『フランス的思考―野生の思考者たちの系譜(中公新書)』で指摘する。

しかも、たとえ共和政を手にするのでも、容赦なく血で血を洗ってきた歴史が示すように、彼らは基本的に「闘争の人々」。現代でもとにかく、国鉄でもゴミ収集でも何でも労働ストで数カ月(!)サービスが止まるのは日常茶飯事だ。私がスイスで住んでいた街にはドイツ国鉄とフランス国鉄とスイス国鉄が乗り入れていたが、フランス国鉄(SNCF)がストで止まっていないときのほうが珍しかった(……というのはさすがに大げさです。すみません)。真面目さと時間の正確さでは日本の鉄道に匹敵するとされるスイス国鉄の駅員さんは、私が「もう1カ月ですよ! SNCFのストはいつまで続くんですかね?」と尋ねると「誰も知りませんよ。だって、ヤツらはフランス人ですよ?」と笑うのだった。

薔薇(ばら)には棘がある。問答無用の美しさを誇示して艶やかに咲く大輪の薔薇のような国、フランスの絶対性を否定するものはいない。だがその花は寛容なのか不寛容なのか、見る者によって色を変える。自分たちが世界の普遍的な基準であると信じる、フランス人の強烈な自負。そしてその思想のためなら徹底的にやりあう闘争心。しかも実のところ、隠しきれずに漏れ出る排他主義。高い美意識とは、どこか独善的で排他的だから維持できるものでもある。だからフランスでの有色人種差別は、どんなに現代のリベラル派が融和的な態度を取り、移民や難民の受け入れ政策を進めても、根深い。覆面で市井の人種差別実態を調査・報告する非政府団体があるほどだ。旧大陸たる欧州には、アメリカ新大陸で語られる人種差別とは構造的に異なる、文化の中に緻密に織り込まれた差別主義が歴然と横たわる。フランス、あるいはEU代表国の国籍を持ちながらISへ傾倒し、ジハーディストへと過激化していく「有色人種」で「異教徒」の青年たちの動機の根が、存在の無視や侮辱、排斥の経験など、理不尽な扱われ方への鬱屈にあるのは、想像に難くない。

今年の相次ぐテロで、移民排斥を唱える極右派ナショナリストたちの声はますます大きくなっている。それでもフランスが移民政策を転換しないのは、もしEU内の人の流動性を否定してしまったら、EUが、そして代表国の一つとしての自分たちが、存在の正当性を維持できなくなってしまうからだ。そしてシリア難民の受け入れを撤回しないのも、自分たちは欧州の大国として高貴な義務を負っているとの自負、あるいは拡大帝国主義時代への反省、または戦後教育の成功としてのリベラリズムや多様性への理解・共感ゆえだ。