女性活躍推進を背景に「理系女子」が注目を集めているが、1つ見落とされがちな視点がある。それは「リケジョはモテる、しかもハンパなくモテる」ということだ。似て非なるものに「オタサーの姫」があるが、両者は大きく異なる。その違いとは……?

コラムニスト・河崎環さん

競争市場における需要と供給のバランスというやつで、需要に対して供給量が少なければ価値は上昇し、高まる需要がギンギンになる一方なのに供給がまったく増えない場合、その価値は高騰する。その高騰ぶりがあまりにむやみやたらじゃないのかと噂されるのが、理系女子、いわゆる「リケジョ」である。理系大学や理系学部の中でも特に、物理系や工学系学部といった、ある意味何か(知的好奇心ということにしておこう)の盛りである男子がみちみちに詰め込まれているのに、女子の存在が消費税率より低い環境の場合、それはもう“入れ食い”に近いものがあると聞く。文系だった私としては、社会学的興味が尽きない。

もう1つ、最近とみに気になるのが「オタサーの姫」なる称号だ。聞くだに楽しそうなトラブルの予感で胸が踊る。それでなくとも文字列や2次元だけをずっと見つめてきた、見つめていたいんだという、男子ばかりで偏った編成の「オタク」サークル(=オタサー)に、ある日共通の趣味を持った生身の3次元の女子が加わる。その女子が果たしてどのような素材であろうとも、性別が女子であるというその強力な一点のみにおいて、彼女は誰もかなわない特殊能力を持った人材、負けることのない存在として珍重されるのである。

「無敗」。なんと甘美な響きであろうか。「俺は文字列や2次元だけを見つめたいんだ」と主張してきた男子たちは、はじめは無関心を装って心の壁を高く築こうとも、やがて(知的好奇心から)それは瓦解し、あるいは決壊し、興味関心は募るばかり……彼らのそんな募る関心と想いをダイソンのサイクロン掃除機みたいにギュイギュイ吸い込み、求心性の塊(かたまり)となった女子は「オタサーの姫」としてかしずかれ、君臨するのだという。「君臨」、なんと神々しい姿か。

世間で出回るそんなオタサーの姫のイメージというのは、だいたいにおいて関係者の妄想や傍観者のおちょくりによって実物以上に誇張されているのは確かだ。しかしこの現象はこれまでことさらに取り上げられてこなかっただけで、高度に文化的でアカデミックな分野においては世界中で100年、200年と連綿と続いてきた伝統であることは、当の女たちはよく知っている。マリ・キュリーとか、与謝野晶子とか、当時女性人材の少なかった知的な業界でその優れた一生と恋多き女ぶりを伝えられる女性偉人には、多かれ少なかれそういった面があると私はにらんでいる。