子供も地域も、ともに成長していく

子供たちの声のうるささ、送迎の車の音や事故の危険。そのために、防音の施策や通行のルールが求められた。建物の敷地の高さをできるだけ下げることも決められた。こうした細々とした要望に対し、山田園長は丁寧に説明し、可能な限り受けとめ、でもこだわるべきところは胸を張って主張した。

話し合いを乗り越えて、新しい「ききょう保育園」は1996年7月に完成し、仮の園舎から引っ越した。93年に園長が近隣に挨拶に行ってからほぼ3年間かかっている。

長年に渡り、粘り強く地域に溶けこむ活動を重ねた結果、周辺住民との軋轢も解消し、自然な関わりがもてるように。保育園と園を利用する家庭、地域の人々、そして行政、相互の歩み寄りが子育てインフラの快適を育む。

移転したらそれで万事解決、というわけではない。何しろ、“反対”した人びとに囲まれているのだ。そこで園長は、少しずつ住民たちに溶けこめるよう努力を重ねた。町内会に誘われて入会し、恒例のもちつき大会の場所がないというので保育園を会場に提供した。園の夏祭りに住民の参加を呼びかけたら加わってくれるようになった。園で教えていた太鼓を、卒園生向けにも教える教室を開催するようになった。そうやって保育園は、何年もかけて町に溶けこんでいった。

移転時に決めた送迎時の交通ルールをいまもチェックしている人もいるが、「来てみると、そんなにうるさくないもんだねえ」と言ってくれる人も多い。いまでは同じ町の、同じ住民として保育園を認めてくれているようだ。

また、十数年に渡って保育園の父母会によって自主的に運営されてきた“病後児保育”の試みを、2000年から病後児保育制度を導入することで、新たに園としての受け入れが可能になった。これは、利用する地元の人々と保育園が一体となって取り組んだ成果だと、園長は言う。さらに保育園に子供を預けている家族だけでなく、子育てで孤立しがちな母親たちみんなの助けになろうと、2006年に子育て支援施設「あじさい村」を保育園のすぐ近くに建てた。一時保育も含めた地域の子育て支援センターとして多くの母親たちに活用されている。