関東大震災のとき、総理大臣は交代中、内閣は不在だった!2011年3月11日、日本を襲った100年で3度目の大震災。先の震災に学ぶ東日本の復興復旧の術とは何か。

2カ月前の3月11日、菅直人首相は絶体絶命のピンチだった。

「献金については、事務所に確認したところ、いただいている」

午前中、参議院決算委員会で、背広姿の菅は苦しい表情で答弁した。

2011年度予算は自然成立が決まったものの、予算関連法案は成立のメドが立っていなかった。内閣支持率も20%まで下落した(2月21日発表の朝日新聞の調査)。2月下旬から専業主婦の年金救済問題で迷走が始まった。苦境が続いていたときに、首相自身の在日外国人からの違法献金疑惑が飛び出したのだ。不人気のまま4月の統一地方選を迎えれば、惨敗必至で、4月下旬に進退極まる可能性があった。

ところが、3月11日の午後2時46分、マグニチュード9.0の大地震が襲った。防災服に着替えた菅は6時過ぎ、与野党党首会談に臨む。自民党の谷垣禎一総裁、公明党の山口那津男代表とも「全面協力」を表明し、一転して「政治休戦」となった。未曽有の大災害で、「救国」「挙国一致」「総力結集」が世論になる。一瞬にして事実上の大連立体制が出来上がった。菅は九死に一生で息を吹き返した。

10万5000人余の命を奪った1923年9月1日の関東大震災。(写真=PANA)
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10万5000人余の命を奪った1923年9月1日の関東大震災。(写真=PANA)

大震災は1923(大正12)年9月1日の関東大震災(マグニチュード7.9)、95(平成7)年1月17日の阪神大震災(同7.3)に次いで、この100年で3度目である。関東大震災は死者・行方不明が10万5000人余、被害総額は約46億円(当時のGDPの約28%)、阪神大震災は6400人余、被害は約10兆円(GDPの約2%)、今度の東日本大震災は約2万6000人で、被害総額は20兆円(GDPの4%超)を超えると見られている。

関東大震災のときは、実は政権交代の真っただ中だった。8日前の8月24日、加藤友三郎首相が病没した。28日に後継の山本権兵衛元首相(海軍大将)に組閣の大命が下った。政党側は第一党の政友会が内部分裂を起こしていて、山本の強力な指導力が求められ、9年ぶりに首相に返り咲いた。

後藤新平。1857年生まれ。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁。当初の復興案は、規模縮小を余儀なくされたが、今日の東京の骨格が造られた。(写真=PANA)
後藤新平。1857年生まれ。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁。当初の復興案は、規模縮小を余儀なくされたが、今日の東京の骨格が造られた。(写真=PANA)

山本は9月1日の朝、東京市長の後藤新平を参謀役にして組閣を始めた。閣僚の人選を進めていたとき、午前11時58分32秒に大震災が襲った。

内務大臣に決まった後藤は大蔵大臣に日本銀行総裁の井上準之助を推した。翌2日に自ら日銀本店に向かう。路上で井上の車と出合ったので、自分の車に乗せ、自邸に連れていって説得した。

「未曽有の大震災が発生した。この惨状を目の前にして躊躇している場合ではない。復興には財政、金融における君の手腕がどうしても必要だ。大蔵大臣を引き受けてもらいたい」

井上は応諾した。

関東大震災は正午前だったが、阪神大震災は午前5時46分に発生した。時の首相は自民、社会、新党さきがけの三党連立による村山富市で、史上2人目の社会党委員長だった。

村山は回顧録『そうじゃのう…』(辻元清美・インタビュー)で、地震発生は首相公邸で朝6時のNHKのテレビニュースを見て知ったと述べている。

「警察庁から来ている秘書官がおってだな。……7時半ごろ電話がかかってきて……被害の状況はわからんけれども、相当大きくなりそうですよというような意味の連絡があった。それで、僕は8時ごろ官邸に出た」

政府の災害の所管は当時、国土庁防災局だったが、宿直を常備する体制ではなかったため、国土庁も担当する警察庁出身の首相秘書官の金重凱之が兵庫県の警察の情報に基づき、首席秘書官だった園田原三(元社会新報編集長)を通じて村山に連絡を入れた。園田が当日の村山の行動を振り返る。

「火曜日で、10時から閣議があった。総理は8時45分に官邸で報道陣にコメントした。その段階では被害状況を把握していない。午前中は甚大になる危険性ありというだけ。正午過ぎに死者203人と聞かされて、エッと驚いた。それからです」

被害状況の把握に手間取り、首相官邸の動きは鈍かった。被災者救出など政府の震災対策が本格化するのは、地震発生から6時間以上が経過してからで、初動の遅れに批判が集中した。(文中敬称略)