ゲーム理論の想定とは異なる日本国憲法前文

第二次大戦後の日本は、平和憲法を掲げるとともに、米国の庇護下に入ることによって、軍備にかける国費を最小化し、経済復興を優先する戦略を採った。いわゆる吉田ドクトリンである。この戦略は戦後の日本の高度成長を大いに助けた。

このとき、米国は共産主義陣営に対抗すべく、同盟国である日本の軍事力増強を望んでいた。しかし吉田茂をはじめとする戦後の日本の歴代政権は、平和憲法を盾にその要求に応えようとしなかった。その意味で平和憲法と日米安保条約は、戦後の日本の高度経済成長をもたらした車の両輪といえる。

競争と協力のバランス(日銀・黒田総裁〈写真上〉、ゴルバチョフ、レーガン米ソ両トップ〈左から〉写真=時事通信フォト、Getty Images)。

政治の世界では昨年、安保法案の合憲性が問題となった。安保法案を巡る憲法論争は、ゲーム理論を専門とする立場から見ると、違憲とする側はあまりにも理屈だけの形式論理に終始していたと感じる。

国際社会での外交、防衛の目的は、国民の現在、将来にかけての安全な生活を守ることにある。憲法の条文の論理整合性を守るためではない。

日本国憲法は、その前文において、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と宣言している。こうした認識は、「各国は、自らの利益の最大化を追求する」というゲーム理論の想定、あるいは国際政治の基本原則と異なる。

現実の世界を見れば、北朝鮮の例を出すまでもなく、南沙諸島の一部を埋め立てて空港を建設した中国にしても、ウクライナに干渉してクリミア半島を自国に編入したロシアにしても、まず自国の利益を追求している。そうした現実を無視して、「非武装で、しかも他国と軍事同盟も結ばない」という戦略を採るとしたら、それは日本国民にとって、極めて危険な状況を招きうる。

戦後、日本人は勤勉に働き、世界的に見ても豊かな、そして品格のある社会を築き上げた。他国も聖人君子の国ばかりではないから、日本に手を出したいと思わないとは限らない。その国の平和を守るために、日本は相応の抑止力を備えなければならない。それには多大な財政負担を伴うので、日本単独では困難だ。そこに安保条約の存在理由がある。

憲法改正論で一番危険なのは、日本の一部にあるように、安全保障体制の強化だけでなく、政治に民意を反映させる民主主義や、国民の基本的人権を認めるシステムを変えるという動きである。イェール大の憲法学者ブルース・アカーマンが私に語ったように、自国をどこまで守るかを決めるのは国民の責任であるが、我々がものを自由に言える今の社会を保証してくれる憲法の根本原則を変えようとする動きは、歴史を逆戻りさせるものである。

なぜ私が日本は軍事国家化しないと安心していられるかというと、民意を選挙で問うシステムが曲がりなりにも機能し、言論の自由が認められているからである。そしてなぜ、中国のほうがアジアの平和において危険だと考えるかというと、共産党政権と異なる意見を持つ論者を拘束することが可能な、かつての日本の治安維持法の時代のような社会に見えるからである。

(構成=久保田正志 図版作成=大橋昭一 写真=時事通信フォト、Getty Images)
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