劉備の人生を決めた兵法書は徳川家康の愛読書

盧植の学舎に通った頃の劉備について、次のような記述が正史に残っています。そこには、勉学にはそれほど打ち込まなかった劉備が、なぜか人を惹きつける魅力を発揮していたことが描かれています。

「先主は読書がそんなに好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美々しく整えていた(中略)。口数は少なく、よく人にへり下り、喜怒を顔にあらわさなかった。好んで天下の豪傑と交わったので、若者たちは争って彼に近づいた」

以下の記述は、公孫サンの配下になったのち、地方の監督者となった頃の記述です。

「身分が低い士人に対しても必ず席をいっしょにして座り、同じ食器で食をとってより好みしなかった。(そのため)大ぜいの人々が彼に心を寄せた」

この劉備に関する記述は、私たちが『三国志演義』などで親しんでいる、人徳に溢れた英雄としての劉備にイメージが重なります。しかし極貧の幼少期の彼の言葉からは、激しい出世欲が見え、青年期とのギャップを感じさせます。どうして劉備は、このように静かで徳を持ち、人を惹きつける人物に成長することができたのでしょうか。

筆者は、劉備に天下人となる徳や戦略性、人間的な魅力を与えたのは、兵法書の『六韜』の存在があったからだと推測しています。中国古典に詳しくない方は、はじめて聞くであろう『六韜』は、紀元前2世紀頃もしくは戦国時代中にはすでに存在していた中国の兵法書の1つです。

『六韜』は、劉備だけではなく、日本で徳川幕府を創り出した武将、徳川家康の愛読書でもありました。家康は、天下を獲ったのち老齢になったとき、病床で「天下は一人の天下に非ず。天下は天下の天下である」と言ったと伝えられています。意味は、天下というものは、権力者一人の持ち物ではなく、天下の人すべてが共有する存在であることです。

天下は一人の権力者の我欲で好き放題してもよいものではなく、万民と共有すべき存在であるという『六韜』の統治理論の根本がここにあります。劉備も徳川家康も、ある意味では「六韜の兵法家」だったのですが、一体、『六韜』とはどのような兵法書だったのでしょうか?