仕事人間を脱して「協奏」の指揮者へ

ダラスでは、もう1つ、新たな体験をした。日米では、環境や安全に対する考え方や基準がかなり違うから、関係書類にはすべて目を通し、工場の構造や装置の配置などを頭に入れた。何か異常があった際、即座に的確な判断と指示ができるようにしておくためだ。

そこまでは、黒崎以来の越智流だが、ダラスでは深夜までの残業はやめた。習慣となっていた「帰りに部下と一杯」もやらず、自宅で遅めの夕食をとる。妻と高校生や中学生の子ども3人も、同道していた。単身赴任を考えたら、妻に「家族全員を連れていってほしい。子どもに対し、父親としての責任がある」と反対された。

週末には、家族で街へ食事にも出た。黒崎では、一緒にいったことがない。典型的な仕事人間。でも、妻は赴任前に「もう、生活を変えてほしい」とも言った。本音に違いない。「推赤心置人腹中」で言えば、今度はこちらが応える番。考え方を180度変え、車で家族旅行にもいき、一緒に過ごす時間を増やす。ここでは「ワークライフバランス」の大切さを、実感した。いま、グループで掲げる「KAITEKI」の標語に通じる価値観も、身についていく。

帰国して5年後、子会社に出向したとき、そこに骨を埋めるつもりだった。だが、2年で呼び戻され、三菱化学と持ち株会社の三菱ケミカルホールディングスの執行役員になり、両社の経営戦略部門の責任者に就く。社長に就任したばかりの小林喜光氏(現会長・経済同友会代表幹事)の下、経営戦略のまとめ役を4年弱、務めた。

最大の課題は、石油化学事業の構造改革と新たな成長基盤をどう築くか、だった。石化では、世界の大手企業が、事業の「選択と集中」を掲げていた。自分も同じ考えだった。ただ、新たな成長基盤の構築で社長に出された命題は、視点が全く違う。地球環境問題や資源・水・食糧などの確保、健康や医療での貢献など世界の潮流をにらんで、「持続可能な社会の構築に貢献していくには、会社はどうあるべきか」だった。金額では表せない領域で、議論を重ねても答えは簡単には出ない。

2008年秋のリーマンショック後、小林氏が示した言葉が、価値を多様な面からとらえる「KAITEKI」だった。たまたま企業の社会的責任(CSR)を考えるセミナーに出たら、その答えがみえていく。「KAITEKI」はCSRを内包し、CSRは事業と一体だ。一人一人の社員が強くなり、連携して前進する「協奏」を進めていけば、高い目標でも達成できる。そう結論を出す。

社長になったとき、最大の課題は成長と指摘し、全員に「会社の壁、事業の壁、個人の壁、すべての壁を取り払い、新しい価値を生んでいこう」と「協奏」の拡大を呼びかけた。上からの押し付けは避ける。本音で話し合い、同じ思いになってこそ、連携は進む。やはり、「推赤心置人腹中」だ。

いま、世界では、企業への投資収益を測る株主資本利益率(ROE)を重視する流れがある一方、その企業が社会にとってどういう存在価値があるのかを評価基準とする脱・ROE信仰の考えも出てきた。どちらも大事だが、「KAITEKI」は後者の価値観と重なる。「自分たちが社会のために何をすべきか、何ができるか」を考え抜く。その目指す方向は、CSRに代わる概念として提唱される「共通価値の創造」(CSV)の考え方とも、軌を一にする。

三菱ケミカルホールディングス社長 越智 仁(おち・ひとし)
1952年、愛媛県生まれ。77年京都大学大学院工学研究科化学工学専攻修了、三菱化成工業(現・三菱化学)入社。2007年三菱ケミカルホールディングス執行役員、09年取締役、10年常務執行役員。12年三菱レイヨン社長。15年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
【関連記事】
最後に勝負を決める資質、豊かな「時間感性」があるか -三菱ケミカルHD社長
日本とアメリカ、働き方の本質的な違いとは
なぜ、人の上に立つ人ほど、休みは休むのか
なぜ多国籍の経営チームが最強なのか
グローバル化進む医薬業界、保守的な化学業界