2016年5月13日(金)

長崎300年の歴史が刻む味!「カステラが歩いた道」

dancyu 2014年6月号

文・小川糸 撮影・高橋宗正
カステラと言えば長崎!? 長崎と言えばカステラ!? こんなにも地名と結びついた「甘いもの」はほかにないだろう。ポルトガルから日本に伝わって以来、愛され続けている飾り気のない和菓子。今も一枚一枚職人が手で焼くという老舗「松翁軒(しょうおうけん)」でその伝統を知り、魅力を味わう。

平たく硬い姿で日本にやって来た

世の中に「カステラ」というお菓子が存在するということを教えてくれたのは、『ぐりとぐら』だった。幼い頃、わたしは毎日のようにこの絵本のページをめくっては、ゴクリと唾を飲み込んでいた。だから今でもカステラを口にするときは、あの頃の懐かしい気持ちが甦るのだ。

カステラの最高峰と呼ばれる“五三(ごさん)焼き”。卵黄と砂糖の量を通常より増やし、その分卵白を減らす。この上なくしっとり濃厚。

日本にカステラが伝わったのは、室町時代の終わり頃、交易を求めて長崎港へとやって来たポルトガル人によってもたらされたという。その頃の名は「カスティーリャ」。カスティーリャとは当時スペインにあった王国の名前で、カスティーリャ王国のパンとして紹介された。ただし、当時のカスティーリャは、今わたしたちが口にしているカステラとは、趣の異なるものだった。

カスティーリャからカステラへと進化してきた歩みを知ろうと、カステラ発祥の地、長崎へ飛んだ。

カステラの老舗「松翁軒」の初代・山口屋貞助が本大工町で店を始めたのは、江戸中期の天和元(1681)年。長崎にカスティーリャの製法が伝えられてから、およそ百年後のことである。

創業当時は、どんなカステラだったのだろうか。松翁軒の十一代目となった山口喜三(きぞう)さんに話を伺う。

まず、材料が今ほど豊富ではなかったので、当時は、卵と砂糖と小麦粉のみでつくられていた。どれも大変貴重な物で、手に入れるだけでも難しかったという。

「出島に出入りする遊女に頼んで、砂糖を入手していたという逸話が残っています」と喜三さん。鎖国していた当時、出島への出入りが制限される中、遊女たちはある程度、自由に中に入ることが許されていた。そこで、遊女はお金を受け取る代わりに砂糖をもらい、松翁軒ではそれを譲ってもらっていたらしいのだ。

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小川 糸