イケメンブームで男性は「見られる者」になった

──イケメンブームは、1990年代木村拓哉を嚆矢とし、氾濫の2000年代を経てきました。

男性が「見られる者」としての自分を意識せざるを得ない状況が大幅に進んだのが90~00年代。イケメン=見られることを意識する者というのが、イケメン現象の本質でしょう。

旧来の家父長的な男性は、女性を一方的に見る者でした。男性は精神(見る、評価すること)を、女性は肉体(見られる、評価されること)を体現していた。それが、女性の社会進出により、男性の支配権や男性中心社会が批判されていくなか、男性もまた見られるという受動性を意識するようになりました。

ポジティブに言って、男性が見られる者になるのは、いわば肉体を取り戻すことです。肉体に配慮し、気持ちよい身体でありたいと思うこと。こういう文脈に、女性的と思われていたアロマや、お風呂にゆったり入ることなどが男性にも広がった現象を位置づけることもできます。

──男性が肉体を意識することで、結果的にモテてしまうのですね。

肉体を意識し、その愉しみの可能性を広げるのは、モテる技術でもある。肉体としての自分に配慮することは男女双方の課題ですから、それを女性だけに押しつけない男性は、労苦と愉しみを共有できる相手として「モテる」のではないでしょうか。

現在では、イケメンが一般化して飽和し、多様な肉体のありようが認められつつある。いわば「ポストイケメン」の時代です。誰もが「◯◯男子」のように眼差されることから逃れられなくなったのです。もっぱら女性に強いられていた、眼差される労苦が男性にもあまねく広まった。ただ、女性の長年の労苦に比べればまったく不十分。男性はもっともっと「潜在的なイケメン」として、眼差しに鞭打たれればいいのです。

千葉雅也(ちば・まさや)
1978年生まれ。立命館大学大学院准教授。学術博士(東京大学)。専門は哲学、表象文化論。著書に『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』『別のしかたで:ツイッター哲学』など。