すべては武田家を守るための、国を守るための秘策、いや、苦肉の策だった。それだけ信玄は、己の死後が心配でならなかったのだ。そして信玄は、いちばん重要なことを言い残す。謙信が失敗した跡目について、だ。

「勝頼が短慮でないことが見届けられれば武田家は勝頼に譲りたいところだが、わしが見るかぎり、そうではない。ゆえに勝頼の子信勝(このとき数え7歳)が16歳になったら正式に家督を譲る。それまで勝頼が後見役を務めよ」

つまり武田家の跡目を継ぐのは、息子の勝頼ではなく孫の信勝だ、と信玄は宣言する。

信玄が死ぬときに、もし孫の信勝が16歳に達していたら、すぐに跡目を継がせていたにちがいない。信玄は、それほど勝頼が短慮で後継者にふさわしくないことを悟っていたのだ。たとえ息子であっても、文字どおりの「愚息」であれば跡目は継がせない、と。

信玄は、これだけ遺言しても心配だったにちがいない。事実、その心配は現実のものとなる。

信玄の死から2年後の天正3年(1575)6月29日、武田勝頼は長篠の戦いにおいて、織田信長・徳川家康連合軍に惨敗を喫する。

信玄がその死を秘させたにもかかわらず、信長だけでなく、ほかの武将たちも、「巨星堕つ」の事実を知っていた。もし信長が、信玄が生存していると信じていたら、けっして長篠の戦いを仕掛けることはなかっただろう。

信玄は、こう言っている。

「信勝がまだ若いあいだに、勝頼が分別をわきまえず、悪しき者を取り立て、わしの定めたことを改め、重臣たちの諫めを聞かなかったならば、君臣のへだたりは広がり、信勝の代はおろか、勝頼の代で武田は滅んでしまう」

信玄が、口をすっぱくして厳しく遺言したにもかかわらず、天正10年(1582)、甲斐に攻め込んだ信長によって武田は滅ぼされてしまう。まさに勝頼の代に武田家は最期を迎える。

「親の心、子知らず」の典型だ。