維新の大阪モデルを全国に広めていく

【塩田】選挙では、候補者発掘と併せて、目指す路線や政策を明確にする必要があります。「ゆ党」でもいいですけど、ほかの党にはできない最大の目標とは何ですか。

【馬場】何よりも「身を切る改革」です。大阪の府議会は4年前、定数を2割削減し、報酬も3割カットしました。政治家が身を切る姿勢を具体的に実行することによって、新たな負担を住民にお願いする。あいつらもやってるんやから、わしらも辛抱しょうか、という話につながるわけです。消費税率を上げて、改革の論議に手を付けないのでは、国民の理解が得られません。

【塩田】地域政党として大阪の改革を目指すだけでなく、国政の重要課題に取り組む場合、国政政党としてのパワーをどうやってアップしていくのか。ここまで橋下さんが超えられなかった1つの大きな壁ではないかと思います。

【馬場】そこがすごく大きな課題でしょうね。永田町で存在感を発揮していくには、何よりも政策を打ち出して実現できる道のりをつくり、結果を残していくしかないんです。

維新の会はもともと大阪での改革を実行するために生まれたのですが、なぜ誕生し、ここまで何をしてきたか、これから何をしようとしているのか、PR不足です。大阪以外ではまだまだ理解が深まっていません。これから全国的に組織をつくっていく中で、そういう面で汗をかき、維新の大阪モデルを全国に広めていくのが一番大事ですね。

【塩田】もともと橋下さんとのお付き合いはいつ、どんなきっかけからですか。

【馬場】最初に出た08年1月の大阪府知事選挙ですね。自民党と公明党の推薦で出ましたが、私は当時、堺市議で自民党大阪府連の青年局長でした。そのときに選対本部に入ってお手伝いをしたのがスタートです。最初に顔を合わせて話をしたのは、橋下さんが自民党の会議に来たときだったと思います。それまでは、ちゃらちゃらした格好で奇抜なサングラスをかけてテレビに出て、なんやねんみたいな感じで思っていましたが、そのときは、髪も黒く、普通の眼鏡に変えて、スーツでネクタイして、びしっとして出てきた。本当はいろいろ計算しているんだなと思いました。最初の頃は、とにかく「改革、改革」と。「大阪を変えたい。大阪が第2の都市ではなくなっているから活性化させたい」と初めからずっと言っていました。

09年の堺市長選挙で、全政党が推薦する現職市長に大阪府庁出身の新人が挑戦し、それを大阪維新が応援した。私はその頃、自民党でしたから、現職市長を応援していたんですが、橋下知事が向こうの応援を始めると、どんどん支持率が上がり、結局、現職市長が負けた。「堺ショック」と言われ、橋下神話の始まりとなりました。

【塩田】その後、自民党を離党して大阪維新の会に入りましたね。

【馬場】堺市長選挙は敵・味方で、しばらくは橋下さんとも松井さんとも絶縁状態でしたが、10年に大阪府、大阪市、堺市の3議会で大阪維新を立ち上げたとき、松井さんから「飯、行こうや」と電話がかかった。何回も断わったのですが、断り切れなくて会いました。松井さんは「大阪の政治を大阪の自民党に任せてたら、潰されてまう。大阪に新しい保守勢力をつくろう、思うんやけど、馬場ちゃんが堺で旗振り役になってくれ」と言われました。それは堺市議でずっと感じていたことでしたから、私の考えとぴちっと合った。

11年の統一地方選挙で、大阪維新は大阪府議会で過半数を取り、大阪市議会と堺市議会で第一党となりました。勢いが出て、大阪都構想もその頃に出てきましたが、住民投票で賛成を得れば、法律改正が必要になります。毎度、既成政党にお願いするのは難しいから、国政に足をかけておかなければということになり、大阪府、大阪市、堺市の3議会から1人ずつ、とりあえず先遣隊として国会にという話になりました。堺市は衆議院選挙では大阪の16区と17区ですが、私が12年12月の総選挙に17区から出ることになった。