いつも脇役コース、でも濃厚な経験

77年4月に入社、本社の中央販売部に配属された。キヤノン製品を代理店経由でなく、大口客に直接売り込む部署だ。ここで、コンピューターのデータをマイクロフィルムに入力する仕組みを担当する。米国製機械にキヤノンのカメラを搭載し、銀行系や証券系のコンピューター会社に売り込む。銀行のオンラインシステムが、ときにダウンした時代。窓口で前日の残高がわからないと困るので、毎日、記帳内容を写してマイクロフィルムに焼き付ける。機械がおかしくなることもあり、24時間・365日、息が抜けない。「24・365」が口癖となる。

当時、直販は社内では脇役で、なかでもマイクロフィルムは小さな分野。さらにマイナーだったのがデータ焼き付けの仕組みで、担当は先輩2人と自分だけ。社内でも存在を知らない人がいた。かたや複写機やカメラの部隊は大きくて、営業用マニュアルなども用意されている。それらを見聞きし、ノートに書き留めて、持ち歩く。9年間、続けた。

次の金融機関全般にOA機器を売る担当でも、最大顧客の銀行ではなく、小規模な取引だった生損保や証券、ノンバンクを受け持った。その後、生損保だけの担当になり、さらに損保担当課が新設されて初代課長に就く。40代まで社内では華やかさに欠ける仕事が続いたが、振り返れば、単純な取引でなく、お客と濃厚なやりとりができ、難題と向き合う経験ができたのは、そのお陰だと思う。

課長時代、毎週金曜日の夕方、部下を1人ずつ呼び、部下の週報をもとに1週間を振り返った。難題も多く、「これは、ちょっと方向が違うのではないか」「お客さんにこうアプローチしているが、それでは本音が聞けないぞ」「来週は、こうやってみろ」などと、指摘した。当初は部下が3人、その後、5、6人に増えた。1人に1時間以上かかることもあり、最後の部下は午後10時ころに始まる。いまなら「パワハラだ」と怒られるかもしれないが、「臨難毋苟免」。部下の難局から、逃げるわけにはいかない。

このころから、付箋紙の多用が始まった。やらなければいけないことが増え、小さな字でメモ書きし、机に貼っていたら、付箋だらけになる。毎日、優先順位を見直し、状況変化に即して更新した。必要なものは手帳にも貼り、その整理は週末に自宅でやる。私生活では面倒くさがりだが、血液型がA型のせいか、仕事に関してはまめ。妻に、呆れられた。

2015年3月、社長に就任。設立以来5代続けてキヤノン出身者が就任していたので、「初の生え抜き」と報じられた。でも、入社試験はキヤノンだったから、そんな感じはしない。

付箋紙は、いまでも駆使しているが、自宅での整理はやめた。ただ、夜中に部下へ仕事のメールを送ることはある。飲んで帰ると、眠くなって2時間ほど寝るが、覚めると目が冴える。メールや決裁書類に目を通し、「これは、いま伝えておいたほうがいい」となれば、深夜のメールとなる。

キヤノンマーケティングジャパン 社長 坂田正弘(さかた・まさひろ)
1953年、東京都生まれ。77年明治大学商学部卒業、キヤノン販売(現・キヤノンマーケティングジャパン)入社。2003年MA販売事業部長、06年取締役、09年常務、13年専務。15年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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