2015年12月25日(金)

引退後の澤穂希にしかできない仕事とは

スポーツ・インテリジェンス【第42回】

PRESIDENT Online スペシャル

著者
松瀬 学 まつせ・まなぶ
ノンフィクションライター

1960年、長崎県生まれ。早稲田大学ではラグビー部に所属。83年、同大卒業後、共同通信社に入社。運動部記者として、プロ野球、大相撲、オリンピックなどの取材を担当。96年から4年間はニューヨーク勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。日本文藝家協会会員。著書は『汚れた金メダル』(文藝春秋)、『なぜ東京五輪招致は成功したのか?』(扶桑社新書)など多数。

執筆記事一覧

松瀬 学=文 AFLO=写真
1
nextpage

ストレスでジンマシンの時期も

サッカー日本女子代表『なでしこジャパン』のシンボル、澤穂希(INAC神戸)が今季限りの現役引退を表明した。サッカーボールとともに30余年。過日の引退会見で、37歳は「今後は、サッカーはもちろん、日本のスポーツ界、世界のスポーツ界でも活躍できるような、澤穂希にしかできない仕事をやっていきたい」と話した。

12月17日、現役引退会見をした澤穂希選手(写真=AFLO)

澤の言葉を借りると、「納得のいく最高のサッカー人生」だった。中学3年の15歳で日本代表デビューし、6度もワールドカップ(W杯)に出場した。主将を務めた2011年W杯ドイツ大会では、米国との決勝の延長後半に同点ゴールを決め、日本を初優勝に導いた。国際サッカー連盟(FIFA)の「バロンドール」(年間最優秀選手賞)も受賞。12年ロンドン五輪では、銀メダルを獲得した。

澤のサッカー人生は、女子サッカーの躍進と重なっている。「一番つらかった時期だった」と振り返る04年アテネ五輪のアジア予選、けがを押して朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を倒し、五輪切符をつかんだ。もしも、2000年シドニー五輪に続き、アテネ五輪でも出場権を逃していれば、いまの女子サッカーの人気はなかっただろう。

澤はこう、述懐した。「北朝鮮に勝たないと、アテネオリンピックに行けない大事な時でした。その時、私自身はひざをけがして、出場を危ぶまれていました。自分のけがの不安がありましたし、チームがアテネのオリンピックに行けるのか、今後の女子サッカー界がどうなるのか、正直、とても不安になりました。心も体もストレスでジンマシンができたりして、大変な時期だったなと思います」

アテネ五輪出場を決めた日本女子は、「なでしこジャパン」という愛称をもらい、同五輪でベスト8入りを果たした。そこからチーム力も人気も上昇気流に乗り、08年北京五輪ではベスト4、11年W杯ドイツ大会の優勝につながった。澤は女子サッカーを取り巻く環境の変化を肌で感じていた。

「ワールドカップで優勝したあとは、ほんとうにお客さんの数も、スポンサーさんの数も、女子サッカーの知名度も、まったく変わったなと実感しました」

PickUp