「つきましては協賛金を……」

禅が理想とする人間像を表す言葉に、「無位の真人」がある。直訳的に言えば、位を持たない人こそ真の人である、ということになる。

人間は社会の中で、さまざまな衣を身に纏って生きている。学歴、職歴、受賞歴、肩書、年収などなど。こうした衣を脱ぎ捨てるのは、簡単なようでそれほど簡単なことではない。

私自身“賞ビジネス”に引っかかりそうになったことがある。

ある日、「平井住職に○○賞を差し上げたい」という電話がかかってきた。だが、一度も名前を聞いたことのない賞である。すると電話の主が、過去の受賞者として著名人の名前を何人か挙げた。そんなに立派な人が受賞する賞ならばと心が動きかけたとき、「つきましては協賛金を……」と言いだしたので思わず笑ってしまったが、こうしたビジネスが成り立つのも、人間が賞という衣を欲しがってやまない存在だからであろう。

無位の真人とは、一切の衣を脱ぎ捨てた素っ裸の人間という意味である。そして、無位の真人となるには、先ほどの話に立ち返って言えば、あらゆるこだわりを手放す必要がある。

当山には政財界から数多くの方々が参禅にこられるが、特に創業経営者の中には、この無位の真人に近い方が何人かおられる。

真っ先に思い浮かぶのは、某レコード会社の創業者A氏である。私は月1回、氏のマンションに出向いて坐禅会を開いているが、私とA氏が上座に座りその他の方々が順次下座につかれる習わしである。

あるとき、坐禅会のあと葬儀に直行する予定があったので、若い僧を帯同していったことがあった。坐禅会が終わるまで下座で控えているように言いつけたのだが、いつものように私の隣に座られたA氏がつと席を立つと、「たまには違う景色を見ながら座ってみたい」とおっしゃって、若い僧と席を交替されたのである。私は「いくら若くても僧侶を下座に座らせておくわけにはいかない」というA氏の濃やかな配慮を感じたが、おそらく他の参加者はそれに気づいていなかっただろう。

一代で何千人何万人を率いるまでに成功した方には、あらゆる立場の人の気持ちを忖度できる人物が多い。

そして、傲慢な人は驚くほど少ない。