家族や仲間の支えがあってこそ

実をいうと医師にとっても、患者から正確な情報が得られることはメリットが大きいのです。今回の入院を通じて、私は医師たちから「浅野さんのお話で、患者さんは何がわからなくて、どこに不安を持っているのかがよくわかりました」と感謝されました。担当医と信頼関係を持ちたかったら、説明をしっかり聞き、的確に病状を伝えることです。

もちろん医師や医療スタッフだけではなく、家族の支えがなければ、難病との戦いは到底、乗りきれません。ATL発症を知ったときも、最初に妻にそれを告げた瞬間、病と闘う勇気が湧いてきたものでした。妻も大きな衝撃を受けたと思いますが、表には出さず、毅然として私を支えてくれました。

ほかにも障害福祉の仲間、厚生省時代の仲間、同じATLを発症した患者仲間などに支えられ、面識のない人たちからもたくさんの応援メールをいただきました。孤立無援の闘いをしているのではないと知ることが、患者に大きな勇気を与えてくれます。

教鞭を執っていた慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に復帰したのは、入院から2年後のこと。入院前に私の講義を受けていた学生もまだ残っていて、「先生を待っていました」と言ってくれました。大学に戻れたこと自体がうれしかったのですが、待ってくれていた学生諸君がいたことで、余計に感慨が深まったと思います。

好きなプレスリーなど、音楽が闘病の助けになったかと言われると、そうでもありませんでした。音楽を聞いたのは、まあ、暇つぶしです。病室では歌謡曲もよく聞いていて、若い看護師が曲名を知らないと、「これはね」と教えてあげたりしていましたね。

「便所の100ワット」などと揶揄されるのですが、「無駄に明るい」患者ではあったと思います。

いま私は「この病気になって、よかった。得るものばかりだった」と公言しています。病気を通じて、情報とは何か、信頼とは何かということを学びました。同じ病気を闘う友ができ、骨髄移植委員会のメンバーと知り合い、難病であるATLについて発信していくという、自分にとっての新しいミッションも得ました。ATLは比較的最近に発見された病気で、情報が不足しています。実際に治っている人がいると知るだけで、患者は勇気をもらえるのです。

退院後、SFCから自宅に近い神奈川大学に職場を転じ、いまは週に1度、大学で講義し、テレビにも出演するなど、普通の生活をしています。まだ完治とまでは言えず、入院前に続けていたジョギングはできませんし、前宮城県知事でありながら、主治医の了解が得られず、東日本大震災の被災地にも入れていません。

ですが、いずれ必ず宿願を果たすつもりです。

▼がんとよく生きるための3カ条
[1]必ず治ると信じる
[2]貪欲に情報を集める
[3]医師との信頼関係を築く

前宮城県知事 浅野史郎
1948年生まれ。仙台市出身。仙台二高、東大法学部卒。旧厚生省で児童家庭局障害福祉課長、生活衛生局企画課長などを歴任。93年から2005年まで宮城県知事。退任後は慶応大教授を経て、神奈川大特別招聘教授。
(久保田正志=構成 永井 浩=撮影)
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