「絶対に許せない」という気持ちの共有

戦後論に話を戻せば、私は1979年に大きな時代の転換点があったと思っている。世界的には、強い個性で経済が低迷するイギリスを導いたマーガレット・サッチャーが首相に就任。ホメイニーを精神的指導者としたイラン革命が起きている。ソビエト連邦のアフガン侵攻もこの年だ。日本は第2次石油ショックが起きたものの、アメリカの社会学者であるエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書いたように“黄金の80年代”に突入していく前夜である。だが、理念なき繁栄は、やがてバブル崩壊した。その後の30年は、政治や経済には閉塞感が漂い、人々は何を信じていいかわからず、空虚感を抱くようになってしまった。

実は、悪というものは、こうした空虚なところに宿るのである。自分が何のために生きているのかわからず、他人からも認められない。そうした人間の心に、するりと忍び込んで、その身体を乗っ取ってしまうのだ。そうして、個々人の持つ生命力を奪っていき、さらに増殖を繰り返していくのである。しかも、恐ろしいことに、人を傷つけたい、世界を壊したいといった衝動を育てていく。

話題になった元少年Aの『絶歌 ――神戸連続児童殺人事件』を読んでみた。正直、読むのが辛かった。確かに、彼が好きだった祖母が亡くなったことは大きな痛手だったかもしれない。けれども、それによって思春期に限りない空虚感を抱いたまま、動物を殺してエクスタシーすら覚えるというのは異常としかいいようがない。やがて、連続児童殺人事件に発展していく。そのとき、元少年Aの内面は空っぽだったのだろう。そこには孤立感しか感じられない。

一方で、このような凶悪な犯罪を報道で知り、続報を見聞するたびに、私たちは怒りの感情をもてあますことになる。例えば、あの川崎市中1男子生徒殺害事件の現場には、数多くの花束や被害者少年の好物だった飲み物などが供えられた。家族でも友人でもない人間が、悲劇的な事件の被害者に感情移入しての行動だ。ここでは人々が、非道な加害者に対して「絶対に許すことはできない」という気持ちを他者と共有しようとしている。

元少年Aの孤立感とは対照的な行動と見ることができる。これは人間の持っている二面性にほかならない。普段は「自分だけしか信じられない」という人であっても、誰かとつながろうという現象は社会における“絆”を感じさせてくれる。その意味で、私は犯罪が、人々に社会をというものを再認識させる出来事だと考える。例えば、残忍な事件ほどネットへの書き込みが増え、はてはサイトが炎上してしまう。しかし、こうした荒々しい感情の根底には、どす黒いエネルギーだけでなく、社会につながりたいという共感への回路も潜んでいるのである。