「留学しない」というリスクを取った理由

当時のレノボはまだ自ら製品を製造できるレベルまで進んでいなかった。後日、楊氏はレノボの歩みを次のように振り返っている。

「聯想は『貿易・製造・技術』という3つのステップを踏んで成長してきた企業です。最初は外資企業の製品の販売代理をやって、そこから市場のニーズや、製品販売の仕方などのノウハウを身につけました。最初の資金もそれによって蓄積することができました。その後、製造中心の企業に変わり、さらに技術、つまりハイテクを前面に掲げた企業へと進んできたのです」

楊氏は、ちょうどまだ貿易というステップを踏んでいた頃のレノボにかかわった。他社との競争に勝つために、市場をしっかりと押さえなくてはならないと理解した彼は、中国の地方都市に販売ネットワークの構築を提案し、自らその作業に情熱と心血を注いだ。それは間もなくして効果が表れ、楊氏の評判につながった。

そこへシンガポールの留学ビザが下りた。楊氏が会社を去ろうとしたとき、先輩や上司が彼を引きとめた。「外国への留学はもちろんいいが、まだ草創期のうちの会社もきっとこれから発展するだろう。残って私たちと一緒に仕事をするのも一つの選択肢だ。もちろん、判断は君自身に任せる」。苦悩した末、楊氏は当時としては信じられない判断を下した。すでに手に入れたシンガポール留学の機会を棄てて、まだ将来性がはっきりと見えてこないレノボに正式に入ることにした。

当時の中国は、「出国ブーム」に沸いていた。当時、バスのなかでも人々は外国留学のことを夢中で語り合っていた。経済が発達した先進国に行くことが、富を手に入れるもっとも早い道と見られていた。中国のいい会社に勤め、いいポストにいる人もそのすべてを捨てて黄金色に輝く外国留学を選んだ。しかし、楊氏は逆の選択をした。これは汗水をたらしながら進む道を切り開かなければならない、苦しい創業の道だ。自らの1日を「朝7時に起きて、深夜12時にベッドに入ればいい。読書する時間もほとんどとれない。土日も半分休めればいいほうだ」と自嘲するほどだった。

しかし、その努力の成果がビジネスの分野ではっきりと出ている。彼も社内で高く評価され、会社の発展とともに大きく成長した。94年、30歳の若さで聯想パソコンの社長に就任し、01年には、レノボグループのCEOにもなった。