リケジョから外資系コンサルへ

図を拡大
MIKAWAYA21 鯉渕美穂社長の経歴

【田原】鯉渕さんご自身の話も聞かせてください。鯉渕さんは東京理科大のご出身ですね。最近は“リケジョ”というらしいですが、どうして理系に進まれたのですか。

【鯉渕】小学生のころから算数や化学の実験が好きだったんです。大学受験1年目は化学系の学部ばかり受けました。浪人して少し方向転換して、結局は理科大の経営工学科に入学しました。

【田原】そのころから経営に興味を持っていたのですか。

【鯉渕】そうですね。高校の文化祭でパンフレットのコスト削減に奔走したことがあったんです。印刷工場にうかがって、紙を薄いものに変えたり、使用する色を3色に絞るなどいろいろな工夫をしたら、部数を減らすことなく、85万円を75万円にすることができました。この経験が私には印象的で、将来は経営にかかわる仕事もおもしろそうだと考えるようになりました。

【田原】実際、就職は外資系のコンサルティング会社でしたね。

【鯉渕】私は母が専業主婦でしたから、自分も子供との時間を大切にしたいと思っていました。一方で、企業経営に携わりたいという思いが強かったので、30歳までは経営に近いところで思いきり働こうと決めていました。そうすると、若いときからバリバリやらせてもらえる外資系コンサルかなと。

【田原】その後、何回か転職されていますね。きっかけは?

【鯉渕】1回目は結婚のタイミングでした。主人が家業を営んでおり、そのサポートができないかと思ったためです。それまでは、出張があったり、地方に長期で赴任することもあったので、そのような環境では難しいと考えました。そこで9時5時で働きながら、将来手伝うときに役立つような資格の勉強をしながら働ける会社にと転職しました。

【田原】それで資格は?

【鯉渕】いや、時間を制限しながら働いていることに疑問を感じるようになり、当時はまだ子供もいなかったので、もっとバリバリ働きたいという思いが募ってしまいました。

【田原】どういうことですか。

【鯉渕】制限しながら働いていると、得られる情報も限定されていました。夫婦で違う環境で切磋琢磨してこそ、互いにとってよい議論ができるのではと考えるようになったのです。

田原総一朗
1934年滋賀県生まれ。県立彦根東高校卒。早稲田大学文学部を卒業後、岩波映画製作所、テレビ東京を経てフリーに。幅広いメディアで評論活動を展開。
(村上 敬=構成 宇佐美雅浩=撮影)
【関連記事】
「空の産業革命」急成長するドローンビジネスの光と影
女性でも実力で社長になる!
10年後に生き残るベンチャー、消えるベンチャー
東京の高齢化にどう備えればいいか
【東京理科大】東葛飾159人トップ! 男子校人気もリケジョブームの兆し