副題にある「優しいリアリズム」とは、政治的に中道から右までの立場にある人々への戒めだ。誰もが最低限の幸福な生活を営める社会を、政治が実現できていないことへの痛烈な批判といえるかもしれない。しかし、そこへたどりつく前に著者が批判するのは、日本においてリベラルを自称する勢力のほとんどが、その名に値しないことについてである。

著者によれば、その勢力にあるのは政治哲学ではなく「反権力」という単なる立ち位置にすぎず、市民社会やメディアを一方的な善とする勧善懲悪の世界観だ。日本社会がグローバル化の波に翻弄され、1億総中流から格差化へ向かうようになったいま、反権力でしかない立ち位置の有効性は失われたと著者は指摘する。「マイノリティ憑依」、つまり「社会の外から清浄な弱者になりきり、穢らわしい社会の中心を非難する」(68ページ)行動では、そこから先に進むことはできない。

だが一方で、見過ごせない変化も起きている。そうした「反権力」メディアが主流だったおかげで無意識に隠蔽されてきた排外感情やナショナリズムが、最近十数年のネット社会の進展によって可視化され、力を与えられるようになったというのである。

たとえば安全保障のアメリカ依存と経済成長の維持というオールド・リベラルを含む親米保守路線はいま、さまざまな方向から攻撃にさらされている。親米保守路線はアメリカの退潮を背景に、もはやその有効性を失いつつあるというのが著者の見立てだ。

しかし、そうした親米保守への多くの批判を支える感情は、容易に反米ナショナリズムや排外主義に転化しうるものでもある。民主主義においては、穏健な中間層の意思をくみ上げることも、人々が当事者意識を持って政治や弱者の問題を考えることも難しい――と説く著者にとっては、先刻承知のことだろう。

だからこそ、本書は先へ進むにつれ、現代人の課題やジレンマについての論考が中心になる。提示されるのは、偏狭なヨーロッパ的普遍主義の終わりや、本当に強い者以外にとっての「自由な選択」の息苦しさ、自由と平等とのトレードオフといった問題意識だ。企業による民衆支配というディストピア(反ユートピア)が、民主主義の観点からの批判にすぎず、人々の幸福の観点からは必ずしもそうではないかもしれない――という指摘には、考え抜いた者だけが持つ苦味がある。

そのなかで著者は、人と人との素朴な「つながり」と、排除を防ぐ論理によって境界を融解させるテクノロジーやグローバルなものに期待を寄せる。そこにあるのは、自分がいまそこで確かにつながっているものから安心をつかみ、共感を紡ぎだすことから始めなければならない私たちの未来である。

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