満州から脱出する人たちは弱者だった

満州国――。1931年、日本は満洲事変を契機に満洲全域を占領して、翌1932年に満洲国を建国した。しかし、終戦間近の1945年8月9日、ソ連が参戦。この時、ソ連軍の侵攻から逃れるため、満州国の首都、新京から避難した1094人の日本人たちは、列車に乗り、朝鮮北部の郭山に連れられた。その多くは女性と子どもで、中には妊婦もいた。名簿を元に本書で記されたデータが、その凄まじさを物語る。

『満州難民 三八度線に阻まれた命』井上卓弥著 幻冬舎

<乳児146人をはじめとして、数え年7歳以下の幼児だけでちょうど700人に達していた。8歳から15歳までの子ども164人を加えると、それだけで564人となり、全体の半数を超えてしまう。16歳から50歳までの成人も469人を数えたが、このうち97%以上の456人が女性で占められていた。50歳以上の男女60余人は、当時の常識では高齢者とみなされる年配者だった。本部員を除けば、働き盛りの壮年男性は皆無と言ってよかった>

満州国在住の壮年男性の多くが、「根こそぎ動員」によって駆り出され、ソ連軍の捕虜になった。その裏側で、占領される恐れから満州を脱出する人たちの多くは“弱者”だったのだ。

ところが、列車は満州から朝鮮半島に入ったものの、38度線を越えることはなく、小さな駅で停車し、強制的に降ろされた。そこで待ち受けていたのは、反日感情を露わにした朝鮮人だった。中には、日本人に理解を示す村人もいたが、地域内で反日勢力が勢いを増し、住む場所にも食べるものにも困窮していく。

<主食は次第にとうもろこしに代わり、(中略)とうもろこしの品質も劣化し、家畜の肥料に回されるような、ひからびて虫の入った在庫品が目立ってきた。すっかり水分の抜けた古くて固いとうもろこしをいくらかでもやわらかくしようと、鍋に水を張ってひたしてみると、粉のような青かびが水面に浮かび上がってくるのだった>

このような食料事情から、難民化した人たちは慢性の下痢に悩むこととなる。加えて、マラリアの発生で、幼児がバタバタと息絶えていく。妊婦は流産や死産、もしくは生まれてもすぐ絶命する赤ちゃんが後を絶たなかった。