自分たちも大砲と砲台をつくろう

日本における変化の胎動は、42年、アヘン戦争で大国中国がイギリスに敗れたときに始まる。

日本が師と仰いできた東洋の最強国、清が敗れたことは、侍たちに大きな衝撃を与えた。「相手はヨーロッパのイギリスという小さな島国でもくもくと煙を上げて走る蒸気船と、遠くからどかんと打てる大砲を持っている」。

そのとき、幕末日本に大砲と軍艦、鉄の蒸気船をつくるという使命が生まれた。しかし徳川将軍のもと、外洋に出ることを禁じられ、大きな船をつくることは御法度だった(大船建造の禁)。銃や大砲の製造には厳しい監督の目が向けられた。情報統制の敷かれた鎖国下の日本では、西洋科学の情報入手は困難を極めた。

海を挟んでアジアに面していた西南雄藩の海防の取り組みは早かった。佐賀の反射炉、薩摩では集成館事業、そして萩においてもまた近代化の取り組みが始まる。幕府に近い韮山、釜石などにおいても西洋式工学化への第一歩が始まった。

幕末、閉ざされた島国で唯一の情報源は、長崎の出島から出た蘭学の書物だった。薩摩の殿様、島津斉彬は地球儀を見ながら考えた。手元には長崎の出島からでた1冊の和蘭書、オランダ陸軍ヒュゲニン少将の反射炉の平面図である。「自分たちも大砲と砲台をつくろう。外国に負けない洋式艦をつくろう」。こうして薩摩に日本初の工業コンビナートが誕生した。鹿児島県の集成館である。今や押しも押されもせぬ経済大国となった日本は、海防の一念からの歴史で幕を開ける。