雪印集団食中毒事件で時代が変わった

横浜リテラは顧客目線の徹底した品質管理とサービスで高く評価されている。情報セキュリティにも力を入れ、印刷ミスや試し刷りなど廃棄する印刷物も1枚たりとも外部に出さず、工場内で処理する。異物混入対策も万全で、資材搬入はトラックを室内に格納してから行う。従業員が使うマジックペン1つでさえ、キャップが混入しないようにと、キャップのないノック式を採用している。

業界初のクリーンルーム工場の内部。

横浜リテラがここまで神経を使うようになったきっかけは、一見、印刷業界とは何の関係もない雪印集団食中毒事件である。2000年に発生したこの事件は1万5000人近い被害者を出し、戦後最大の集団食中毒となった。事件後、食品業界に対する消費者の視線は厳しくなり、食品メーカーは安全基準の厳格化を図った。その影響を受けたのが二次包装を作っている横浜リテラだった。

「あるとき、突如として食品メーカーから大量の返品が相次ぎました。二次包装業者に対する品質基準が急に厳しくなったのです。髪の毛1本の混入はおろか、計数管理も厳格化され、それまで規定より少し多めの個数で箱詰めしていた慣例がいきなり不良品扱いされるようになったのです」

従来、二次包装のパッケージを1ケース当たり1000個詰めで納品せよという指示があれば、1~2%程度多めに入れて納めるのが常識だった。そのため、製紙メーカーも少し多めに資材を納めていた。ところが、1000個詰めならば、ぴったり1000個。1001個でも不良品扱いされるようになったのだ。

星野は時代が変わったと思った。

「厳格化と同時に、短納期、小ロット、高品質を取引先が求めてくる。それより水準の低い仕事はみな中国に流出していきました。我々が生き残るには品質と要求の高い仕事をしなければなりません。そのため、あっという間に製造原価が上がり、利益が出なくなってしまったのです」

工場の入り口にホコリ取りの吸引機などを設置したが、気休め程度にしかならない。社員の品質意識を変えようと、品質マネジメントシステムの国際規格であるISO9001の認証を目指すと、ベテラン社員から反発の声が上がった。それを粘り強く説得し、2002年に取得したが、数人のベテラン社員がなじめずに去って行った。

星野は「厳しい環境であればあるほどチャンスだ。他社が真似できない会社にならなければ生きていけない。新しい時代の布石は自分が打たなければ社員が路頭に迷うだけ」と思った。ちょうど2001年に星野は父の尚(ひさし)から社長を継いだ。父は星野のやり方に決して賛同していたわけではない。激しくぶつかり合うこともあったが、ここまで会社を成長させた父を無視することはできなかった。