合理性ばかり追求するいまの社会で
宿命で共にいるかけがえのなさ

僕が11年ぶりに脚本を手がける連続ドラマが、2009年1月からはじまる。そのドラマには「ありふれた奇跡」というタイトルをつけた。

いくらか戦争とその後の敗戦国の食べもののなさ、薬のなさ、貧困を体験したものには、いまの平和が、長寿が、豊かさが、すべて奇跡に思える時がある。その国で自殺者が年間3万人を越すというのは、どういうことか。

人間とは厄介なものだとつくづく思います。いまを奇跡と思うのは無理かもしれないが、まあ、たまには親子や夫婦や兄妹として、共に暮らしていることの奇跡――経済性や合理性ばかり追求するいまの社会で大半宿命で共にいることのかけがえのなさ、奇跡などという視点も大事なのではないか、と思う。

僕は「岸辺のアルバム」を書いたとき、多摩川の洪水で家を流された何組かの家族に取材をさせてもらった。

そのとき驚いたのは、誰もが自分の家を失ったことを「死に目にあえなかった」「見ていられなかった」と、あたかも人が亡くなったように語ることだった。流失直前の家に飛び込んで、「さようなら、さようなら」と涙を流しながら冷蔵庫のビールをまいたという人もいた。

当時、家を建てるというのは、とくに男にとっては一生の大仕事だった。人生を共にする妻にとっても、それは同じだっただろう。そこに込められた家族の思いには、他人には計り知れないものがあったと思う。

いまは、そこまで家に対してユートピアを幻想する人は少ないのかもしれない。それでも、家が家族の象徴であることに変わりはない。家族が絆で結ばれているかぎり、家はそれぞれの心の中にある。「岸辺のアルバム」に登場した家族4人が、そうであったように、嵐が来ればみんなが必死でそれを守ろうとするはずだ。

もし、僕がもう一度「岸辺のアルバム」を書くとしても、きっとそういう話になるだろう。

(撮影=若杉憲司 構成=山口雅之)