バネ性が強いと硬くて加工が難しく、柔らかいとバネ性が弱い。強さと柔らかさを両立させれば、デザインも自由になり、かけ心地をよくできる。それをニッケル抜きで実現する。「理想の素材を生むにはブレークスルーが必要」。多田さんは金属研究の世界的権威、東北大学金属材料研究所に共同研究を申し出た。2002年のことだ。ここから苦難が始まる。


ラインアートの製造を行う本社工場より。商品によってはフロントやテンプル(つる)部分の着色を手作業で行うことも。バネの耐久性を調べる機械も自社で製造。

実験では成功しても、製品化が容易でなかった。最終工程までこぎつけても、最後の表面処理の熱で組成が変わる。すると最初から素材のつくり直し。その繰り返しが6年続いたある日、トップの堀川会長から開発中止を打診された。「あと半年待ってください」。多田さんは懇願した。

「できないといった瞬間、全部が終わる。自信は半々でも、できないとはいえませんでした」

同じころ、県の産業支援センターの発案により、レーザーを使った新しい溶接技術の開発も進められていた。従来は接着用の金属を使うろう付けという方法が行われていたが、加熱範囲が広く金属が組織変化するなど欠点があった。何よりチタン合金には適さなかった。この分野の世界的権威、大阪大学接合科学研究所と共同開発に挑んだ中村浩さん(同)が話す。

「レーザー溶接は金属同士をピンポイントで直接接合するので高い強度を保てます。ただレーザー光の照射径は0.4ミリ以下。微塵のズレも許されない精度が必要です。これも量産化が壁となり、失敗の連続でした」

先が見えなくても、トップは継続を容認した。それは会社の成り立ちとかかわる。初めはフレームの金属部品のごく一部をつくる町工場。堀川会長が次第に製品の範囲を広げていった。転機は1970年代のメタルフレームブームだ。部品はすべて内製化できたため、完成品の製造に参入。その際、既存メーカーと流通での対立を避け、業界初の小売店への直販を始めたことが、独自の路線を決定づけた。堀川会長が話す。「既存メーカーのカスタマーセンターは週末休みでも、うちは土日に多い来店客のため、無休で対応しました。小売店を通して、上がってきたのがお客様の声でした。重い、痛い、ずれる。その不満をなんとか解消したい。既存の素材で不可能なら、時間はかかっても、新しいものをつくろう。われわれは圧倒的なかけ心地を目指しました」。