2015年4月24日(金)

「稲庭うどん」はなぜ、高級品なのか

dancyu 2013年4月号

文・小西一三 撮影・小松ひとみ
窓の外は、屋根から下ろした雪の壁と大きな氷柱。おしゃべりもBGMも一切なし。しんと静かな工場で、職人たちが集中して取り掛かっているのは、稲庭うどん職人の必修科目「手綯(てな)い」作業だ。

稲庭うどんの里、秋田県湯沢市稲庭町は深い雪にすっぽりと覆われていた。2月中旬、日中の最高気温は氷点下2℃。稲庭うどんを製造する「寛文五年堂」の工場では、白い作業着を着た女性たちが窓の外の積もった雪に向き合うように並び、手綯(てな)い作業の真っ最中だった。話し声もBGMも機械音も一切なし。時折、手綯いを終えた生地が詰まった木箱を運ぶ従業員の足音だけが聞こえる。

「この手綯いは生地を細くのばしながらよりをかけ、掛け棒にあやがけする作業で、リズミカルな手の動きが大切。うどん職人の必修科目です。大ベテランはそうでもないけど、なかにはラジオやBGMをかけるとリズムが狂ってしまう職人もいるようなので、工場内はできるだけ静かにしています」

説明してくれたのは副工場長の佐藤栄悦さん。入社19年目の佐藤さんは、小麦粉に塩水を加えてこねる生地づくりから、出来上がったうどんの選別まですべての作業を経験した職人で、現在は製造工程のスケジュール管理、技術指導などを行なっている。

手綯いを終えると掛け棒にかけたまま木箱に収めてねかせる。手で生地をのばしながらよりを入れるという複雑な手作業だが太さは見事に揃っている。さすが職人技。

佐藤さんの説明によると、生地づくりから乾燥までには多くの工程があり、その合間、合間にうどん生地を“ねかせ”(熟成させ)て生地のコシを強くし、手綯いをしてよりをかけ、細くのばすのだという。各工程で自分の仕事を黙々とこなす職人たちの伝統の技に見とれてしまった。

その昔、稲庭村と呼ばれていた街道沿いの小さな宿場町は昭和31(1956)年に川連(かわつら)漆器で有名な川連町、農業の盛んな三梨(みつなし)村と合併し、稲庭川連町となった(昭和41年に稲川町に改称)。『稲川町史』によれば、乾麺である稲庭うどんを初めて製造したのは、稲庭村に住んでいた佐藤市兵衛ではないかとされているが、はっきりと記録に残っているのは、寛文5(1665)年に創業した佐藤吉左衛門(後に稲庭姓を名乗る)だ。

秋田県内陸南部に位置する稲庭一帯は秋田県内でも有数の豪雪地帯。冬の訪れが早く、春の遅いこの地では穀物の生産は年に一度だけで、冷害の恐れも多い。だからできるだけ確かな収穫が望める穀物が必要だった。小麦は稲に比べて寒さに強く、稲作に適さない土地でも栽培することができる。このため稲庭村の隣の三梨村では江戸時代、小麦の栽培が行なわれていた。収穫した貴重な小麦をよりおいしく、長期間の保存にも耐えられるように試行錯誤を繰り返したのが佐藤市兵衛や稲庭吉左衛門。小麦の主産地でつくられるうどんの数倍もの手間をかけ、丹念に乾麺に加工した稲庭うどんが、高価たるゆえんだ。

この連載記事のバックナンバー
トップページへ戻る

小西 一三