言葉ではなく背中で語れる者となれ

では、自由自在な心の持ち主とは、いったいどのように行動するのだろうか。

禅の修行では、よく「徳を積め」と言われるが、この徳とは一般の社会で考えられている善行とはかなりニュアンスが異なる。禅的な徳とは、「○○のために」という要素をまったく含んでいない行いのことを指す。「陰徳を積め」もよく言われる言葉で、人が見ていないところで徳を積むことを指す。人が見ているところで積む徳には、どうしても「いい人だと思われるために」というように、「○○のために」が入り込みやすい。だから、陰徳を積めというのである。

自由な心の持ち主は、人が見ているところでも、見ていないところでも、ただ、行うのみだ。電車のドアが開いてお年寄りが乗り込んできたら、パッと席を立つ。いい人だと思われたいから立つのではない。まして、席を譲ったのに礼を言わないなどといって憤慨することなど、ありえない。周囲の人からどう思われようと、感謝されようとされまいと、ただ、パッと席を立つのみである。それが禅的な徳であり、真に自由な境地なのである。

なぜ禅では桜より梅を愛でるか

私の好きな禅語に「梅三千世界香」がある。日本人の多くは桜の花を愛でるが、禅ではむしろ梅を愛でる。梅は厳しい寒さの中で百花に先駆けて可憐な花を咲かせ、馥郁たる香りを放つ。

香りとは、実に不思議なものだ。目には見えないのに、人々をいい気持ちにさせたり、不快な気持ちにさせたりする力を持っている。梅の香りは、わざわざここに咲いていると主張したりしないのに、周囲にいる人々の気持ちを和ませ、楽しませる力を持っている。

信頼とは、この梅の香りのようなものではないだろうか。ことさら「俺は信頼できる人間だ」などと叫ばなくとも、信頼に足る人間か否かは、自然と周囲に伝わっていく。それにはまず、信頼を得たいと願う心の囚われを捨てることだと、梅の花は教えてくれるのである。

(山田清機=構成 若杉憲司=撮影)
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