この本は大きい本か、小さい本か?

では、いったい何のために極限まで身体を痛めつけるのかといえば、それは、心の中に180度の大転換を起こすためなのである。苦痛を耐え忍んでいる状態から、これはやらされているのではなく、自分から望んでやっていることなのだと、意識の大転換を起こすのだ。逆に言えば、そのように考えなければとうてい乗り越えられないほど厳しい修行を積んで初めて、やらされているという考えを捨て去ることができるのである。

この180度の大転換を経験すると、人間は自由になる。ただし、禅でいう自由とは、自分がやりたいことを何でもできるとか、欲しいものを何でも手に入れられる自由とは異なる。禅の自由は、文字通り、自らに由ること。自分の足で立つこと。自立をすることである。この自由の境地から、本物の自尊心が湧き上がってくる。現代風に言えば、自分の本当の価値を知ることになるのである。

お釈迦様がお生まれになったとき、天と地を指さして、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったことは、みなさんよくご存じと思うが、お釈迦様は決して、「この世で自分ひとりだけが尊いのだ」などと傲慢な宣言をされたわけではない。自分の本当の価値を知ることの大切さを、身をもって示されたのである。

自分の本当の価値とは、比較から生じるものではない。

たとえば、いまここに1冊の単行本がある。読者に問うが、果たしてこの本は、大きい本か、それとも小さい本か?

「比較する本がなければ、大きいとも小さいとも言えない」

おそらく読者はこう答えるだろう。そう、この単行本は文庫本と比べれば大きいが、百科事典と比べれば小さい。つまりこの本の大小は、比較対象があって初めて言えることであって、この本自体は大きくも小さくもない。それが、この本の本質なのである。