本田宗一郎は、ミカン箱の上で世界に挑戦した

大学で“グローバル”教育なるものを受けてもいない戦後第1世代、第2世代から世界的な名経営者が数多く生まれ出たのは、彼らに「世界で勝負したい」「世界のトップに追い付きたい」という、“蛮勇”ともいうべき気概やアンビションがあったからだ。

その後の世代(1950年代以降に生まれた人たち)は偏差値教育に毒されて、自分の“分際”“身の程”をわきまえるようになった。「偏差値0の自分にできることはこんなもの」「夢はこれぐらい」と自分で規定してしまうし、親や教師からもそう見なされるから、大胆なチャレンジをしなくなる。あるいは、そこそこ高い偏差値を取っただけで“勝ち組”と驕り、安心して、努力しなくなってしまう。

グローバルとローカルを分かつのは決して能力や学力ではない。目線の高さであり、アンビションだと私は思う。ホンダの副社長で世界化をリードした社員採用第1号、西田通弘さんの話によると本田宗一郎さんは従業員25人の町工場の時代からミカン箱の上に立って「世界のホンダを目指す」と演説していた、という。私も偏差値教育以前の世代だから、自分の偏差値など意識したことがない。自分の能力は無限と信じていた。

私はもともとグローバルな人間ではない。学生時代に通訳案内業のようなことをやっていたので語学はそれなりだったが、世界を意識して育ったわけではない。ただ一つ、原子力を学びたいというアンビションはあった。

若き日の大前研一氏が学んだマサチューセッツ工科大学。

原子力をやりたくて東工大に進学、さらに当時の最先端の原子力を学ぶためにマサチューセッツ工科大学(MIT)に行こうと勝手に決めた。

願書とマスター論文を提出して合格通知をもらったのはいいが、調べてみたら授業料は親父の年収の5倍。そのうえ、向こうでの生活費もかかる。簡単に工面できる金額ではないし、親の援助もあてにできない。正直にそう手紙を書いたら、「奨学金を出してやる」とMITが助け舟を出してくれた。こっちは行きたい一心だから、持っていた車を売り払って片道切符だけでアメリカに渡ったのである。

生活費まで出してもらった恩は立派な論文で返せばいいということで、何ら負い目を感じずに勉強できたし、結果、大学院同期130人の中で一番早くドクターを取った。私のアンビションとMITのフレキシビリティが融合して、留学をまっとうできたのだ。