平将門は、私の同郷人である。茨城出身と言うと、すぐ「水戸」などと言われるのだが、鬼怒川と小貝川にはさまれた地方である。あまり人物の出ない茨城県の西部結城地方、往年の下総国では、歴史上の有名人といえば将門と長塚節がいるくらいだ。海音寺潮五郎の『平将門』は、大河ドラマ『風と雲と虹と』の原作になったもので、私は中学生時分、ドラマにあわせて夢中で読んだものだ。桓武天皇の末裔である正義感溢れる青年が、出世を目ざして京の都へ登るが、藤原氏が支配する都では平氏といえども田舎武士など相手にされず、失意のうちに帰郷して、一族や源氏の豪族との土地をめぐる争いから戦となり、それを六孫王(ろくそんのう)源経基に、反乱だと報告されてしまい、藤原氏の専横に対する怒りもあって決起し遂に倒れるという雄編だが、このような将門像を作ったのは、真山青果の戯曲「平将門」であろう。

承平・天慶の乱と呼ばれるこの反乱は、10世紀半ば、西国で海賊を率いて藤原純友が起こしたものと呼応しており、将門と純友の間に連携があったという伝説もあるが、史実ではあるまい。しかし将門は、田原藤太と呼ばれる藤原秀郷と、従弟の平貞盛、つまり清盛の先祖に討たれてしまう。だから、元来国家の逆賊である。ただ、その怨霊を恐れて神田明神に祀られたから、特別扱いされており、畏怖の対象ですらあった。もちろん、青果や海音寺の将門像は創作だし、近世の歌舞伎では多くの影武者を持つ不気味な人物として描かれる。

しかし歴史学的に言うならば、将門の反乱は、京都、近畿が日本の首都であり中心であった時代の、関東の武士たちの、自立を求めての反乱の第一歩であった。後年、源頼朝が、北条氏ら関東豪族の支援を得て鎌倉に幕府を開いた時に関東自立は成し遂げられたわけで、海音寺は、将門反乱す、と京に急報した源経基の子孫が頼朝であるところから、人の世の転変の面白さよ、と書いている。

しかし存外知られていないのは、幕府が京に置かれた室町時代にも、関東府と呼ばれる関東公方、副将軍が鎌倉にあって、しきりに関東自立の策謀をおこなっていたことで、これは足利基氏から4代にわたって続き、遂に将軍方の上杉氏と争って古河に副将軍府を作り、結局は後北条氏や上杉謙信、武田信玄など群雄の擡頭(たいとう)を招いた。

まことに不思議なのは、あの慎重な豊臣秀吉が、北条氏を滅ぼした後で、徳川家康を江戸へ入れたことで、これは虎を野に放ったようなものだった。かくして日本の中心は江戸へ移り、今日に至っている。

さて、どのみち実像など分かりようがないのであれば、私たちは海音寺が描いた将門像を信じたふりをして、その、敗者の美を嘆賞してみたいと思うのである。大河ドラマの将門は、純朴で剛毅(ごうき)な青年を加藤剛が演じ、色男・山口崇の演じる従弟貞盛と恋の鞘当てを行う没落貴族の姫君・貴子を吉永小百合が演じ、この姫が戦乱の中で兵たちに強姦されて死ぬという末路を迎え、一方将門は、伯父の娘・良子という、当時新人の真野響子が演じた、気の置けない少女が、源氏へ嫁ごうとする途次を襲って略奪婚する。しかしもちろんこの娘は将門をもとから慕っていた、という設定である。

いかにもロマンティックな設定だが、「新皇」と称した将門を真山青果が美しく描いても、戦前の体制において特に問題はなかったのが不思議である。下手に細かな史実が分からないことは、将門にとって今日の幸いであろう。私たちは、青果や海音寺が描いた将門を楽しめばよいと思う。青果の将門も、新しい歌舞伎座で上演してもらえないだろうか。そういえば茨城県出身の代議士・赤城宗徳も将門の研究で有名だった。