東南アジアの発展に果たした日本の役割

――ただ、日本の急激な成長は欧米との貿易摩擦を引き起こし、85年のプラザ合意で、円高が一気に進んだ。

昨年12月、「アジアコスモポリンタン賞受賞記念 奈良フォーラム」が開催された。

【西村】プラザ合意による為替相場の大胆な変更を通じて、日本からの海外投資がASEAN、中国、インドなどに向かう下地ができた。東南アジア諸国も困難を何とか克服して87年12月、第3回ASEANサミットの開催にこぎ着ける。そしてここで、積極的に海外投資の導入に踏み切ることを鮮明にした。それは「集団的外資依存輸出指向型工業化戦略」といわれた。

このASEAN工業化、産業高度化政策を支援したのが日本にほかならない。とりわけ、JODC(海外貿易開発協会)の派遣技術者たちが、単身で東南アジアに渡り、ものづくりの重要性や醍醐味を献身的に伝えたことは特筆に値する。私は彼らのことを“匠道の群像”と尊称しているが、そのDNAを受け継いだアジアの人々が自動車などを生産している現場を見るにつけ胸が熱くなる。その功績は忘れるべきではない。

これらを含めて、世界銀行が報告書で「東アジアの奇跡」と呼ぶほどの目覚ましい経済成長を遂げた。やがてASEANには、99年までにベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジアが加盟し、10カ国の陣容となる。97年には、タイのバーツに端を発する通貨危機があったものの、発生から半年後には、その克服を念頭に「ASEAN Vision 2020」を採択。それまで進めてきた域内貿易投資自由化を核とする市場統合を加速させるのである。

――こうした歴史がERIAの設立につながっていく。

【西村】このビジョンの動きを早めたのが、2001年の中国のWTO(世界貿易機関)への加入だった。その条件として中国は、非常に多くの法令を整備。さらに国内の流通を自由化させ、その成果は5年間でGDPの倍増をもたらした。これを目の当たりにしたASEANでは、05年の第11回ASEANサミットで15年までに「ASEAN経済共同体」を完成させることが議論され、07年1月、フィリピンのセブ島における第12回ASEANサミットで正式に声明した。

こうした時代の流れを受けて、2006年には二階経済産業大臣が東アジア版OECDとして期待されるERIAをグローバル経済戦略で提唱した。そして、第3回東アジアサミット(07年11月)において、日本の福田康夫首相のERIA設立提案に参加全首脳が合意した。位置づけは、東アジア経済統合実現へのロードマップの策定、同地域のエネルギー安全保障の研究を担うシンクタンクというものである。08年6月、ASEAN事務局において、ASEAN10カ国に日本、中国、インド、韓国、オーストラリア、ニュージーランドを加えた東アジア16カ国の理事の参加を得て、設立理事会が行われ、研究活動が本格化する。