米起業家の衝撃「自分も挑みたい」

1962年5月、東京・世田谷で生まれる。小学校から慶応義塾で、中学から大学までラグビーを続けた。最後は身長180センチ、体重も80キロ台になったが、小さいころはひ弱。根性がないと自覚し、鍛えるために始めた。

85年4月に旭硝子に入社、千葉工場に配属される。就職したら海外で仕事をしたいと思っていたら、大学の先輩が「製造業なら事務系の入社数が少なくて、海外拠点が多いところが、チャンスは大きい」と助言してくれた。

工場に2年いて、本社の海外事業部で2年目に入ると、ある日、部門長の常務がやってきた。「海外勤務の希望を出しているが、本気か。これからはアジアの時代、シンガポールの営業所へ元気な若手を出そうと思うが、いくか」と尋ねられた。突然だったが、即座に「いきます」と答える。

シンガポールには、89年夏から4年間いた。アジア各国や豪州を飛び回り、本社からくる幹部たちを案内もした。その間、いろいろな課題や人生訓を聞き、「自分はずっとラグビー三昧で、勉強などしたことがない。もっと勉強したい」との思いが募っていく。

帰国し、再び海外事業部門にいたとき、人事部から回覧板が回ってきた。「経営学を学ぼう」とある。留学希望者の募集だ。すぐに応募した。2年間、猛勉強して、オハイオ州のケース・ウェスタン・リザーブ大で経営学、アリゾナ州のサンダーバード大で国際経営学と、2つの修士号を取得する。

留学でも、衝撃的な出会いがあった。大学院にはOBがきて、教壇に立つ。その一人に、3000億円規模の事業をつくった人がいた。帽子をかぶり、ジーンズにTシャツ姿。「うちの商品には、社会を大きく変える可能性があり、こんなふうにやってきた」と、まくし立てる。「実務は部下にやらせ、夕方5時を過ぎると、黒塗りの車に乗って料亭へいく」という自分の経営者像とは、全く違う光景。「これは、日本は、いまのままでは勝てない。自分も起業家に挑みたい」と頷いた。

98年夏に帰国し、ほどなく会社に留学費を返して退社。日本IBMに移り、事業家への展開を模索する。コンサルタントの仕事を担当し、3社目がファーストリテイリング。柳井正社長「現・会長兼務」に誘われ、入社して様々なことを教わった。そこには、のちに一緒に起業をすることになる元商社マンもきていた。まさに「縁尋機妙」そのものだ。

ローソンに入ったころは、昔ながらの喫茶店が減り、安くて手ごろな専門店が増えていた。ローソンも、より上質にして、店頭で売る準備の最中。顧問になって2カ月後、長野県飯山市と軽井沢町の2店で発売されたが、その間、「売りやすい大都会ではなく、地方店で始めて成功すれば、全国で展開しやすい」と説き、長野支店の推薦地を受け入れた。

コーヒーは一部の店で扱っていたが、うまくいかないでいた。飯山市の店も、1日平均15杯しか売れていない。でも、リピート客がつきやすい分野だから、新浪氏の構想を受け、イタリア製の全自動抽出機の導入交渉を進める。競争は激しいが、心がこもった「接客の味」と、高品質の豆を使った「美味しい味」の「2つの味」を売り物に、全国の約1万店で扱うまでに育て上げた。

2014年5月、ローソンの社長に就任。重ねてきた不思議な出会いを背に、前述した手法で取り組む姿が、全国約1万2000店のオーナーに支持されての昇格だろう。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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