医師として「地球の裏側」に行く

【塩田】慶大在学中は、外交官試験に合格するために頑張ったんですね。

【山中】大学の講義は欠かさず出ました。一方で、夕方から児童養護施設でボランティアに従事し、夜は外交官試験の専門学校に通いました。銀行員だった父親がその数年前、勤めを辞め、母親が働いて家計を支えていたので、大学時代はアルバイトしなければならず、最初は家庭教師や予備校の先生なんかもしました。

友人に「いいバイトがある」と言われて、夜の世界で働きました。東京の新宿・歌舞伎町や川崎などで、客の呼び込みやホストクラブ勤め、キャバクラのスカウトなどで生計を立てていました。怪しい世界にも平気で踏み込んでいくタイプなので、水商売の世界の人たちと深い縁ができました。危ない仕事とか、他の人がやりたがらない仕事もまじめにやったので、信頼感を得て、その世界でも中心的な役割を担うようになりました。ホステスの愚痴や悩みの聞き役、トラブルの調整もやりました。やくざと向き合って、命の危険を感じながら、話をつけることもありました。収入は一番よかったときで1年に1500万円近くもありましたね。

【塩田】慶大卒業前に受験した外交官試験の結果は。

【山中】論文試験などの後、最後に20人前後、面接試験に残ります。その段階で落ちる人はほとんどいないんです。成績は上位だったので、合格するとわかっていたのですが、最終の面接試験で「アフリカや途上国などを中心に、テロや感染症、貧困など、世界の共通利益に関わる外交をやりたい」と言ったら、外務省のキャリア官僚の試験官に鼻で笑われました。「日本外交は大国間の外交が主軸。アフリカとか途上国の外交は日本の国益にならない。日本の外務省に入る限り、その感覚は棄てなさい」とはっきり言われました。私は外交の現場で途上国の問題や貧困、平和の問題に関わっていく仕事をしたいという一心だったので、自分から辞退しました。

【塩田】外交官の道をあきらめて、次にどうやって「地球の裏側」を目指したのですか。

【山中】何年かかってもいいから勉強して医学部に入り、技術を身につけてアフリカや途上国に、という覚悟を持ちました。たまたま父親が「こんなのがあるよ」と言って、群馬大学医学部が国立大学で初の試みとして編入学試験を行うという新聞記事を持ってきました。理系でなくても大卒なら受験可で、定員は15人、1泊2日の「温泉入試」で合否を決め、3年次に編入という試験です。約2500人の受験者の中で、文系の合格者は私一人でした。

【塩田】医師となって、「地球の裏側」に行くという決心を実現したわけですね。

【山中】群馬大学の医学部を卒業して、松下政経塾に入りました。目的はただ一つ、「地球の裏側」へ行って活動するためです。政経塾のほうは、ボランティアをさせるために入塾を許可したわけではないと言って、なかなかアフリカでの活動をOKしてくれませんでした。だけど、粘ってなんとかアフリカ行きを認めてもらい、南アフリカやケニアに出かけるスタートラインを創ることができました。