自分たちの手によるものづくりを模索

その後、営業部に配属されました。営業とはいえ、実際にやっていることは、取引先から発注書をもらって工場へ送るだけのメッセンジャーボーイです。「市場調査をもとに、お客さまのニーズを具現化するのが本来の営業の仕事だ」と指摘すると、今度は“販売促進”とは名ばかりの窓際に追いやられました。本業はやらなくていい、だから勝手にやれと。32歳で課長になれなかったのは、同期では私だけです。窓際には、私と同じように“会社の言うことを聞かない”先輩が3人いました。好きにやっていいというので、自分たちでものをつくって売るという仕事を始めたのです。傘の生地や自動車のカバー、ベビーカーや女性の靴の中敷きなど、とにかく売れるものをつくろうと試行錯誤しました。

そこでたどり着いたのが、自動車の内装材でした。当時、自動車の内装材は塩化ビニールが使われており、ちょうど自動車メーカーが付加価値の高い素材を探していたタイミングとも合致し、新素材として合成繊維を採用してもらえることになったのです。ところが、会社がやってはダメだという。セーレンのような染色加工メーカーがする仕事ではない、と猛反対に遭ったのです。それなら自分でやろうと、セーレンケーピーという子会社を立ち上げました。私たちが自動車の内装材を始めたことで、自動車業界でも繊維素材の活用が広まっていきました。自動車の内装材は、いまでは当社の主力事業になっています。

一方で、主流の染色加工業はどんどん悪くなっていきました。繊維産業はアメリカが最大の市場でしたが、1971年のニクソンショックをきっかけにアメリカから締め出されてしまいます。続けて二度のオイルショックに見舞われ、さらに1985年のプラザ合意により円安から円高へ向かうと、生産は一気に傾いていきました。自動車の内装材の販売が伸びていたとはいえ、それだけでは追いつかず、1987年、ついに会社存続の危機を迎えてしまいます。

社長に就任したのはその年です。当時47歳、末席の取締役でした。会社が崖っぷちの状態では、もはや年功序列などと言っていられなくなったのでしょう。どうせダメならあいつにやらせてみよう、と私にバトンがまわってきたというわけです。