社外人脈もそんな中で培われていた。例えば、彼より遅れて入社した一人の前職は、英会話の先生だった。もう一人は米軍のヘリコプター操縦士だった。肩書は証券アナリストだが日本企業のことなど知らない。数字も読めない。日本語すらできないから通訳が必要だった。

日本企業であれば、人事は人事部に委ねられているが、大半の外資系企業は、少数の幹部が人事と予算の両方を掌握する。経営規模や日本法人があるかどうかを問わず、外資系金融の経営判断が速く、機動力があると評される理由はそこにある。しかし、裏を返せば本国から遠く金融監督の届かぬ極東の地で、幹部は思いのまま振る舞うことができるということだ。そうした人材が登用されたのは、お気に入りのバーが同じで「夜の営業でいろいろと役に立つ」からだった。

多くの日本企業がリスクの高い金融派生商品を抱え込んだ背景に、そんな外資系金融のなりふりかまわぬ営業があった。

また“派手な営業”は見返りも大きかった。別の外資系企業から転職したマネジャーは、2年契約で200万ドル。加えて子供のインターナショナルスクールの学費300万円、家賃200万円の住居、メードの人件費が会社持ちだ。

こうした不健全な企業活動は自粛すべきだとスミスは思っていた。大規模なリストラの対象者は、こうしたいわゆる協力的でないスタッフを中心に選ばれた。

「結局、まるで明治時代の不平等条約を結んだようなつもりでいるから、日本の法律を無視して平気なのです」

解雇は不当だと主張するスミスらを前に、ジーパンとノーネクタイで現れた支店長はこう言ったという。

「私は日本語もできないし、日本の法律など知らない」

(早川智哉=撮影)