越の寒梅と酢漬け

燗酒の温もりが恋しい時期になった。

ほろほろ酔うて木の葉ふる 山頭火

行乞の俳人、種田山頭火は無類の酒好きとして知られ、酔うがままに詠んだ句も多い。

岩川隆さん(第10回参照 https://post.president.jp/articles/-/12934)が、山頭火の伝記随想ご執筆を開始されたのが1985年で、掲載誌は酒の友社が発行していた「酒」であった。そのいきさつについて、同社の佐々木久子さんから、

<「あんた、書いてみんかね」と広島弁でいわれたのは五年前であった。>(岩川隆『どうしやうもない私』講談社)

というから、80年頃から準備されていたように思われる。ちょうどその頃か、もう少し前、酒の友社の女性編集者Sさんが岩川さんの仕事場へ出入りするようになった。

佐々木さんは必ずSさんに地酒を手土産にもたせ、その御相伴おこぼれに与るのは私のような若いのんだくれどもであったから、一升瓶はすぐに空いてしまう。まだ清酒の何たるかも知らぬ若造でさえ、

「うまい!」

唸らせたのが、「越の寒梅」であった。

いまでこそ酒呑みならば知らぬ者はいない銘酒であるが、当時はまだ知る人ぞ知る、の存在で、佐々木さん自身、坂口謹一郎博士らと蔵元を訪ねたのは67年秋だったという。

「越の寒梅」を世に出した石本省吾社長は、学生時代に熱中した漕艇にたとえ、

「ボートは後むきで漕ぐのでゴールは見えない。見えないゴールに向って懸命に漕ぐだけ。酒造りも同じだよ」(佐々木久子『酒に生きるおやっさん』鎌倉書房)

水のごとくさわりなく、あとから旨さが戻る理想の酒を目指して漕ぎ続けたという。

Sさんは、いつも手作りの酒肴を持参してくれていたが、なかでも大根、胡瓜、人参、茗荷など野菜の酢漬けが大好評で、ああこんな料理上手のヨメがいたら、とオヤジどもは己が不遇を嘆き、悔むことしきりであった。