2つの店の経営の両立は難しかった

おやじの下で働いて10年ほどが経った頃、オイル・ショック(1973年)となり、高度経済成長が終わる。不況となり、近藤さんは、独立することを決めた。

「店に残ることもできたかもしれないが、おやじに悪い気がしました。私に給与を支払うのも、苦しくなっているようでしたから」

店は、海老名市に構えた。数十万円の蓄えと妻の親などからの経済的な支援、さらに金融機関からの借り入れを合わせ、店を買った。店では、主に自転車やバイクを売った。2年目を終えたとき、おやじが48歳で息をひきとる。脳溢血だった。姉との間にできた子どもは、まだ小さい。

近藤さんは、おやじの後を継ぐことにした。川崎市の店を守ることで、姉やその子どもの養育費をねん出しようとした。海老名の店の経営も続けた。妻と2人の子が海老名にいる。子どもが幼い。川崎市に引越をすると、転校となる。それは避けたかった。店主として海老名と川崎の2つの店の切り盛りをする。これが、人生を変えていく。

「このときから、55歳くらいまでの10数年間が、体力的に、精神的に、経済的にものすごいキツイ日々でした。毎日、海老名と川崎を車で往復する。往復2時間ですよ。

海老名の店の経営状態はよかったのですが、川崎の店は利益があまり出ないのです。それでも、姉さんのところに生活費が入るように売り上げを維持しないといけない。その傍ら、海老名の店を守らないと、私の家族が路頭に迷ってしまいます。2つの店の経営を両立させるのは、難しかったですね」

持ち前の学ぶ力を生かし、製品や商品の知識をひたすら獲得した。接客や駆け引き、さらに経営の術も学んだ。

「学歴がどうのこうの、と言っている場合じゃないです。次々と覚えていかないと、店が動かない。家族を含め、守らなきゃいけない人が多かったですから」

一時期は、海老名の店だけを経営することを考えた。だが、姉やその子、亡くなったおやじのことが頭をよぎる。川崎の店は、自転車やバイクなどを販売する店の主人たちがお客となる。

「主人たちは、いわばプロでしょう。店を構え、その向こうにたくさんお客さんがいます。私としては、店を勝手にたたんで裏切ることはできないと思ったのです」

その後、しばらくして海老名の店を知人に売った。ここ10数年は、川崎市の店(コーエイ商会)の経営に専念をする。川崎の店はおやじから受け継いだ店であり、手放すことはできなかった。