関東大震災のとき、総理大臣は交代中、内閣は不在だった!2011年3月11日、日本を襲った100年で3度目の大震災。先の震災に学ぶ東日本の復興復旧の術とは何か。

3月11日の震災で、政治休戦となったが……。

3月11日の震災で、政治休戦となったが……。

そのまま3.11を迎える。菅は延命の好機と見て自分から動いた。3月14日にもう一度、加藤に電話を入れた。加藤がその場面を振り返る。

「『こういう事態になったので、一緒に』と言ってきた。私は『大臣を出し合ってやるのは無理だ。自民党には震災復興問題など政策分野のエキスパートがいるので、プロジェクトチームをつくり、代表を出し合えば、一緒にやろうという機運が生まれる。土台づくりが大事』と話した。だが、菅さんは『それより上から、ばさっと大きくやりたい』と言った」

加藤は今度も谷垣に伝えた。谷垣の反応はどうだったか。

「その気はなかった。菅さんに『やはり無理』と伝えた。そのへんはわかっているはずなのに、菅さんは19日に谷垣さんに電話した。いい感触だと誰かが伝えたのかもしれないが、政治家ではほかに両者をつなぐ人はあまりいない。そこは謎です」

菅は19日、突然、谷垣に電話して入閣を要請した。民主党内の話し合いや調整、自民党側との政策のすり合わせといった事前の準備は何もなく、トップダウンで持ちかけた。谷垣は「あまりに唐突」と言って拒否した。

だが、自民党では、以後も大連立をめぐる議論が続いた。政権参加容認論も小さくなかった。政権に加わり、巨費が投入される震災復興事業に関与したいという思惑もあった。他方、菅を退陣寸前まで追い込んでいたのにという思いも強く残っている。菅内閣に手を貸さず、このまま民主党政権の自壊を待つのが得策という計算も働いた。

結局、自民党では谷垣の入閣拒否から20日後の4月8日、正式に「大連立拒否」「健全野党で復興に協力」という方針を明確にした。

菅はあきらめない。その後も繰り返し秋波を送り続けた。政権維持にはそれしか手がないという切羽詰まった状況がずっと続いているためだ。

いくら誘いを受けても、自民党の拒否姿勢は変わらない。政党政治における健全野党路線の正しさ、菅政権の自壊が早いという情勢判断などもある。

<strong>大島理森●</strong>1946年生まれ。青森県出身。自民党副総裁。毎日新聞記者を経て、衆議院議員。幹事長、衆院予算委員長、農林水産大臣などを歴任。
大島理森●1946年生まれ。青森県出身。自民党副総裁。毎日新聞記者を経て、衆議院議員。幹事長、衆院予算委員長、農林水産大臣などを歴任。

それ以上に大きかったのは菅に対する不信感の拡大だ。大震災発生後、民主党の仙谷由人代表代行(官房副長官)らと話し合いを持ってきた自民党の大島理森副総裁が手厳しく批判する。

「菅首相は野党が協力して当たり前、協力を得れば、土俵際まで追い詰められた自分のポジションを、あわよくばまた土俵の中央まで戻して延々とやりますというにおいをずっと出している。災害復興を自分のために利用するという思いを払拭しないと、連携はむずかしい状況だ。菅首相が大死一番の決意を各党に見せることができないなら、辞めることのほうが、民主党も含めたすべての党が力を合わせる環境づくりになるのではないか」

言外に「首相交代なら大連立も可」という思惑が見え隠れしているように映る。そうなると、連休明けの「政治休戦」終結後の政治は、大震災の復旧・復興対策や日本再生プラン、宙ぶらりんの11年度予算関連法案の問題、菅が唱える「平成の開国」や「税と社会保障の一体改革」などの諸課題に、首相の延命、自民党や民主党反菅派の菅降ろしの動きが絡んで、再び政局は荒れ模様という展開になりそうだ。(文中敬称略)

※雑誌掲載当時

(的野弘路、小倉和徳、熊谷武二、岡本 凛=撮影 PANA=写真)