ただ、自分たちはトレーダー集団だから、扱うのはバランスシートに食い込む与信のリスクではなく、相場の変動リスク。そこへ果敢に挑もうと決め、アジア専門のトレーダーを核にしたチームをつくろう、と考えた。当時、シンガポール市場は活況で、国際石油会社の敏腕トレーダーが集まっていた。その何人かをスカウトし、最強集団の新会社をつくる構想だ。

トレーダーの世界は、腕一本で渡り歩く例も多い。取引のあった会社などから、6人が移籍に応じた。ところが、3人を抜かれる石油会社の現地法人の社長が怒り出し、2カ月間の「出入り禁止」を言い渡される、さらに、自社の全世界の社員に「丸紅とは取引するな」とのメールも流された。

バブル崩壊の影響を受け、90年代半ばから丸紅の業績は低迷、シンガポールに赴任した年は46年ぶりの最終赤字となっていた。苦境から脱するには、新たな地平を切り拓くことが欠かせない。アジアや米国で電力の開発や供給に乗り出し、カタールからLNGの輸入を始めるなど、社内には挑戦する機運も出ていた。でも、本社は、待ったをかけてきた。怒りを発したのは、丸紅の重要な取引先。アジアの成長力などを説いたが、叱責を受け、新会社設立は幻に終わる。こうした経験が、社長就任時のメッセージを生んでいく。

シンガポールに約3年5カ月いて帰国した翌年、石油・ガス開発部長になる。当時の丸紅は、インドの油田の合弁事業と英国の北海油田の権益を一部持っていただけで、資源開発では後発組。「成長への布石」が責務だった。