先輩が会長として着任し、自分はトレーダーの責任者。合弁相手からきた3人と一緒に、年間に700万ドルの純利益を出すまでにする。だが、突然、嵐が襲う。91年1月に湾岸戦争が始まると、原油の供給懸念から、さっと値が上がる。前年夏にイラクがクウェートに侵攻して以来、米国などによる反撃は想定していたし、原油はずっと値上がり基調で、先物の買い残を持っていた。値上がりが続くなら、利益が大きく出る。ところが、相場はすぐに反転し、あっという間に半値以下となった。

含み損が膨らみ、ちょっとばたばたもしたが、値動きがあるときは反対売買も容易で、何とか処理が終わる。厳しかったのは、その後だ。湾岸戦争は2月に終わったが、相場は動かず、「べた凪」の状態が続く。トレーダーの出番はなく、損が膨らんでいく。

打てる手は打ち尽くしたが、結局、本社から事業の打ち切りと会社の売却を言い渡される。最終的な損失は960万ドル(約11億円)。いくつか売却先を探したが、交渉は不調に終わる。やむを得ず、丸紅の子会社がいったん買い取り、清算へと向かった。最後に事務所にかけた鍵の感触が、ずっと、手の中に残る。

本社へ戻り、原油課の担当課長となった。お客向けの取引を担当していたら、ラインの課長に特命が下り、課のことをすべて任される。急に、カタールやアブダビなど中東への出張が増えた。お客の石油会社が自前の調達ルートを持ち始めたころで、商社は自身のリスクで原油を買っていた。だが、バブル後の日本で需要は弱く、持っているだけで損が出た。

そこで、石油製品の取引の経験を生かし、精製してガソリンや灯油にして売ることを、産油国に提案する。出張が増えたのは、そのためだ。もちろん、「もしものとき」への手配も忘れない。当時の部下たちが、覚えている。「國分さんは『切った、張った』のトレーダーの世界が大好きだが、取引そのものは手堅く、常に『バックストップ』を用意していた」。バックストップとは、野球場のバックネット。強いファウルボールが飛ぶことの多い捕手や主審の後ろの観客が、怪我をしないように立てた金属網で、「もしものとき」への備えだ。