小児病棟でのボランティアで決意したこと

Dr. Kelly A. Turner 
ケリー・ターナー博士

「がん」との最初の出合いは、3歳のときでした。叔父が白血病だと診断されたのです。叔父の闘病は5年におよびました。親族が集まるたびに、わたしたち子どもは「がん」という恐ろしい病について聞かされ、震え上がりました。わたしが8歳の時、叔父は亡くなり、いとこは父親を失いました。大人の男の人たちは、「がん」で死ぬかもしれない、とわたしは思いました。

14歳のとき、学年末の終業式の直後に、仲のよかった男の子が胃がんと診断されました。ウィスコンシン州の小さな町には衝撃が走りました。募金集めのためにパンケーキ朝食会を何度も開き、彼のお見舞いに行きました。大丈夫だよと言う友だちもいましたが、わたしには「あのときと同じことになるかもしれない」という、いやな予感がありました。男の子は副作用に2年も苦しんで、17歳で亡くなりました。町中が悲しみに暮れました。その後何年間か、わたしは友だちと彼のお墓に花を供えに行きました。彼の死によってわたしは、がんは年齢に関係なく誰をも死に追いやる病なのだと悟ったのでした。

ハーバード大学の学生だったとき、わたしは代替医療やヨガ、瞑想と出合いました。それは初めて体験する不思議な世界でした。それまでのわたしは、心の世界と身体の状態とは別のものだとして、2つを切り離して考えていました。けれどもしだいにそうした考え方に違和感を覚えるようになりました。

ハーバードでの4年間はすばらしいものでした。卒業後の最初の仕事として、わたしは地球温暖化をテーマにした本を共同執筆する予定でした。ところが気がつくと、学生時代に謳歌していた人的なつながりを一切失い、ただコンピューターに向かうだけの生活をしていました。あるとき、その孤立感を友人に話したところ、彼女は、ボランティアをしたらとすすめてくれました。それで、がん患者の役に立つためのボランティアをしようと思い立ったのです。

ニューヨークにあるメモリアル・スローン・ケタリングがんセンター小児病棟で、最初にボランティアをした日のことは、いまもはっきりとおぼえています。わたしの仕事は、静脈注射による抗がん剤治療を受けている子どもたちと、ボードゲームのモノポリーで遊ぶ、というものでした。たったそれだけです。けれどもその数時間のあいだ、子どもたちは、病気のことをすっかり忘れて夢中になっていました。わたしにとっては、人生を変えるほどの意義のある出来事でした。これが天職だと感じました。数週間のボランティアを通じて、わたしはカリフォルニア大学修士課程に進むことを決めました。腫瘍社会福祉学、なかでもがん患者へのカウンセリングを専門に学ぶことにしました。

大学院で学ぶうちに、わたしは改めて代替医療に関心を持ちました。多くの本を読み、ヨガのインストラクターの資格も取りました。日中はがん患者のカウンセリング、夜は勉強とヨガの時間に充てました。当時、わたしの夫は鍼(はり)や漢方など中国伝統医学の学位をとるため勉強をしつつ、身体エネルギーを活用した難解な治療法を学んでいました。代替医療の学習材料には事欠かない環境でした。

人生の転機となったアンドルー・ワイル博士の本に出合ったのはこの時期のことです。ワイル博士の説く「自発的治癒」という現象に興味を持ち、このテーマを追求するため博士課程へ進むことにしました。医学的には不可能だとみられた状態からがんを克服した人々は、いったい何をしていたのか。その探求に人生を捧げる決意をしたのです。