記憶力は異常にいいが、暗記は大嫌い

中村は1954年5月22日、父の友吉、母のヒサエの間に次男として生まれた。愛媛県・瀬戸村(当時)である。瀬戸村は日本でいちばん長い半島の佐多岬にあり、典型的な過疎地帯だ。中村が幼い頃はバスもなく、木船で隣町に渡った。村には中学校までしかなく、次男、三男は卒業後、大阪や東京へ集団就職に出る。中村もそのつもりになっていたのが、父の転勤で小学校2年生のとき、近隣の町、大洲市に住むようになり、進学への道が開けた。父は四国電力社員で、変電所の保安係だった。

中学、高校時代の中村について友人、教師は異口同音に「目立たない、普通の生徒だった」と言う。大洲高校のときはクラスは5つに分かれ、進学を目指す成績の良い生徒が入る5組で、成績は中くらいだった。

しかし、中村は2つの点で普通の生徒ではなかったのだ。他の生徒が受験勉強に専念しているというのに、バレーボール部に属し、365日、バレーボールの練習に明け暮れしていた。同じクラスで陸上部に属していた生徒は、勉強が追い付かず、4組に落ちていった。担任の先生はバレーボールをやめるように勧めたが、中村が抜けると、6人制バレーボールは成り立たなくなる。県大会ではいつもビリの弱いチームだった。

その頃、キャプテンを務めていた宮崎幹夫によれば、「運動神経は特に優れているとは思わなかったが、ヘドを吐きそうになっても『もういっちょこい』と叫んでレシーブの練習をしていた」。中村は「強くなくてよかった。簡単に勝てたら、自分の人生は別のほうに行っていた。コンチクショーと、とことん自分をいじめ抜く精神は、バレーボールが原点になっています」と言う。研究が袋小路に入ると、「しめしめ、これでいい」と感じる、マゾヒズムに似たがんばりが中村にはある。

もう一つ、中村は社会、歴史、国語など記憶力に頼る課目がジンマシンの出るほど嫌いだった。記憶力で引き目を感じていたわけではない。LEDの開発を進めていたときも、一切メモを取らず、自分の頭の中に細かいデータを収めていた。記憶力はむしろ異常なほど良い。人に強制されて記憶するのが嫌いなだけだ。自分の好きなことを四六時中、考え尽くすことが好きである。徳島大学を受験したのも、歴史、社会、国語など暗記ものの配点が低かったからだ。

スポーツで自分の原点を見いだし、暗記ものの学科を嫌った中村の存在は、彼が輝かしい業績を上げれば上げるほど、ペーパーテストに偏った受験制度への痛烈な皮肉になる。