私は参謀の役割をまっとうできなかった

私の経験もお話ししておこう。88年限りで現役を退き、解説者を4年間務めていた私は、93年に鈴木啓示さんが近鉄の監督に就任した際、作戦兼バッテリーコーチとして再びユニホームを着た。鈴木監督は周知の通り、弱小時代から近鉄のエースとして通算317勝を挙げたスターで、球団の生え抜きでは初めての監督だった。85年限りで引退してから指導者の経験はなく、長嶋さんと同じようにスター選手から監督になったパターンである。大きな注目を浴びる中、私がその参謀役に指名された。

結論から言えば、私は参謀としての役割を期待通りにまっとうすることができなかった。捕手というポジションで、あるいは解説者として第三者の立場でも野球を勉強してきたつもりだったが、いざ勝負の当事者になってみると、選手とも解説者とも違った経験を積むことの必要性を痛感させられた。鈴木監督は就任時に45歳、私は39歳だった。実力社会で年齢を失敗の理由にするのは情けないことだが、若い監督をサポートするには熟練の参謀でなければならないというのが本音である。のちに監督も経験してわかったのは、監督という仕事は選手からいきなり就任しても成功した人はいるが、若い参謀役が目立つ実績を挙げた例はない。つまり、参謀役とは監督以上に難しい仕事であり、指導者として豊富な経験が必要だということだ。

このあと、96年に佐々木恭介監督に交代した際に二軍監督となった。一軍と二軍は別組織であり、佐々木監督と頻繁に顔を合わせることはない。しかし、二軍には選手を育成して一軍に送り込む、不調で二軍落ちした選手を再生するという役割があるため、常に一軍からの要望に応えなければならない。打撃練習のボールを投げているときでさえ携帯電話を手放せないなど、常に一軍からの連絡に対処しなければならない仕事は、想像以上にチーム編成という分野における参謀役だということがわかった。

そこで肝に銘じたのは、決して監督のイエスマンになってはならないということ。一軍のチーム状態が良好なときは問題ないが、5連敗、6連敗と負けが込んでくると、佐々木監督からはイキのいい選手を送ってほしいと求められる。私も一軍の勝利に貢献できる選手を推薦したいのだが、残念ながらそうした選手が見当たらない時期もある。そんなとき、不調で二軍落ちした選手を再び昇格させよと命じられても、私が太鼓判を押せなければ「まだ駄目です。少し辛抱してください」と答えられるかどうかが重要だった。二軍監督には、選手の将来を預かる役割もある。戦力にならない状態で一軍へ上げても、その選手を潰してしまうことになりかねないのだ。一軍のために動きながらも、時には選手を守らなければならない。この仕事を4年間にわたって務めたことが、00年に監督に就任した際にも生きたと思っている。

元近鉄・日ハム監督 梨田昌孝(なしだ・まさたか)
1953年生まれ。72年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。88年引退。野球評論家を経て、93年近鉄に一軍作戦兼バッテリーコーチとして復帰。2000年一軍監督に就任。08年~11年北海道日本ハムファイターズの監督して活躍。
(横尾弘一=構成 的野弘路=撮影 時事通信フォト=写真)
【関連記事】
星野仙一監督「おれは胴上げで宙を舞うことだけ考えるよ」
【落合博満監督】守りに徹した非情野球の裏側
リーダーの器が優秀な参謀をつくる
天才の盲点は参謀を使えないこと
古今東西の「名参謀の知恵」に学ぶ【1】