ここから「中国大返し」が始まった。岡山市の備中高松城跡。天正10(1582)年、秀吉は湿地にある高松城を「水攻め」。その間に本能寺の変が発生、毛利方と急遽和睦し、「中国大返し」を断行する。いずれも官兵衛の献策とする説がある。(AFLO=写真)

本能寺の変以降、官兵衛は秀吉の命により、毛利家と領土の境界の画定交渉を行っています。その経緯も、秀吉との間で交わした書簡によって追うことができます。

こういう交渉が、すんなりまとまるはずはありません。秀吉は官兵衛にかなり無理をさせたと思います。官兵衛は秀吉からの指示と、交渉相手の毛利からの言い分の板挟みになります。交渉がなかなか進まず、秀吉が官兵衛を叱責した手紙も残っています。

官兵衛はそういう難しい交渉を、粘り強く地道に、何度も何度も繰り返し、豊臣方に有利に導いていきました。そういうところから秀吉は官兵衛を信用していったのではないかと思うのです。

ではなぜ、官兵衛はそれだけの成果を挙げることができたのか。それを説明するために、彼が軍師として特別な才能を持っていたとか、兵法に通じていたというような話が生まれたのでしょうが、私は彼のいちばんの才能は、「真面目」という才能だったのだと思っています。

策略や奇策によって、周りを押しのけて出世したのではない。どこまでも誠実に粘り強く、上司からの無理な注文に対しても、相手方からの厄介な要求についても柔軟に対応していったからこそ、数々の難しい交渉をまとめることができたのだと思っています。それはとりもなおさず、官兵衛が周囲からの本物の信頼を得ていたということでしょう。

秀吉による天下統一の仕上げともいうべき小田原攻めに、官兵衛は参加しています。すでに家督を息子の長政に譲って引退していた官兵衛が小田原まで呼ばれたのは、過去に様々な交渉を成功させてきた手腕を期待されてのことでしょう。頑強に抵抗していた北条氏が、最終的に交渉した相手は官兵衛だったのです。